死んではいけない理由を考える

 幼いころからずっと考え続けている。それは単純に、納得できる答えが見つからないから。もし目の前に自殺しそうな人がいたらどうするだろう。それを止められるだけの力はあるだろうか。そもそも止めることはその人のためになるのか?そんなことを自分に問いかける癖が昔からあった。

 よくある理由は、「命は大切だから」だろう。大切だから、粗末にしてはいけない。もし屋上のフェンスの先でそう説得されたなら、私は中指を立てて飛び降りる。命を失ってしまわないように、どんな地獄の中でも生き永らえなければいけないというのか。死んではいけないから、生きて苦しめというのか。それ自体が間違っているのではないけれど、この場合は不正解だ。

「自殺したら地獄行」「バチが当たる」「生きてたらいいことがあるかも」
はいはい、全部ダウト。
「親が悲しむ」「私が悲しい」
人による。じゃあ、お前がどうにかしてくれよ。私の人生。
「自殺は犯罪だからダメ」
まぁ、理論的。自殺が犯罪かどうかには疑問が残るけど。
「死んだあと、遺族が多額のお金を払うことになる」
これは確かに。私に一番効くのはこれ。でも、悪いけど知ったこっちゃないとも言えちゃうよ。人によっては。

 そもそも「命は大切だ」というのはフィクションである。フィクションとは、世界を解釈するための道具である。意味のないこの世を生きやすくするための虚構、仲間の生存率を上げるための作戦、「なんか知らんけど、まあ便利やから」と使っているだけの存在。これに限らず、世の中はフィクションに溢れている。分かりやすい例はお金だ。インクのたっぷり染みこんだあの紙切れが物やサービスと交換できるのは、偉人の肖像画があるからではなく、「それに価値があると皆信じているから」。人々はフィクションを共有し、信じることで文化的な生活を営んでいる。家族も国家も宗教も、文明や科学でさえも、すべては皆フィクションなのである。

であるならば。
諭されても制止を振り切り飛び降りるような人間は、「命は大切だ」というフィクションを信じられない状態にあるといえるだろう。だって、そんなこと他人から聞くまでもなく知ってるんだから。

 違う方向からアプローチしてみよう。我々はなぜ生きているのか、ひいては、「我々はなぜ生まれたのか」?それはズバリ、「分子が存在するのに丁度いい形がこれだった」から。電子とか陽子とかなんかそういうあれこれが安定して存在し続けようとする中で、たまたまこの形をとると長くいられた、というものの一つが人間であり、我々であっただけだ。意味などない。我々の行動は、すべて自己複製の過程で生まれた結果にすぎない。気になるあの子と目が合ったときのドキドキも、推しのライブが外れたときの絶望も、分子を複製するのに便利だから生まれた化学物質の組み合わせである。生まれたことに意味もなければ、生きることに意味もない。ちゃんちゃん。やーい、絶望しろ。わーいわーい。

「じゃあ、死んじゃいけないわけもないよね?」

その通りである。すべてはフィクションで、虚構で、解釈の一つにすぎないのだから。まぁ、ぶっちゃけ死ぬ意味もないけど。

 話を続けよう。生きる意味がないにしても、我々が日々生きて生活をしているのは、無意識のうちに「生きる」という選択をしているからである。そして、生きる理由として「なんとなく」「もったいないから」「死ぬのが怖いから」「神が自殺を許さないから」などと各々のフィクションを鋳造し、採用している。上で述べた「生まれた意味」もまぁ、フィクションの一つになるんだろう。我々はフィクションと共に生きている。

 ということは、だ。「死ぬ理由」というのも、それぞれが信仰するフィクションだということになる。

「生きているのが苦しいから」
→「死んだら生きている状態より楽になる」、「無は+ではないが、-よりもまし」という価値観
「自分には生きる価値がないから」
→「価値がないと生きてはいけない」、それに付随して、「自分に価値がない」とする理由、フィクション

ざっとこんな感じだ。あまり具体的なことを書いてしまうと、誰かを傷つけそうでひよっちゃった。てへ。代わりに私のことを書いておくと、

  • 常に頑張り続けて、上を目指し続けないといけない

  • 自分が上手くいかないのは、努力が足りないから

  • 努力すればなんとかなる

言える範囲であれば、こんなところかな。どのフィクションを採用するかは、自分の脳みそを回して選ぶべきですよ。本当に。

 よりよく生きるためには、より多くのフィクションを知識として吸収し、最適なものを選べるようにすることが求められる。例えば、恋愛感情がない人がいたとき、次の2パターンでは行動が異なる。
(1)「恋愛感情がない自分は冷たい人間だ。何かが欠けている」
(2)「恋愛感情はないが、ただそれだけだ。不幸ではない」
 (1)の人間は、「すべての人間は恋愛感情を持っているもの」というフィクションを知らず知らずのうちに採用してしまっている。これは誤った(あるいは、この人にとって不適切な)フィクションだ。この人が今後どのように悩み苦しむことになるかは、容易に想像できるだろう。
 一方、(2)の人間は「恋愛感情がある人もない人もいる」というフィクションを採用している。これは、自分を肯定できるフィクションだ。この人は、今後何かあっても、このことで自分を責めることはないだろう。
 という風に、自分に合うフィクションを知っているかいないかで、人生は大きく変わる。悩みの数が減るからね。

 「死にたい」と思うのは、環境のせいであったり、性格の癖であったり、病気が理由だったりする。色々な理由が複合的に重なり合って、もうどうしようもなくなって死にたくなる。もしくは、慢性的にじんわりと死にたいと思っている。どちらも経験がある。前者の場合、強かったのは「今のこの状態から抜け出したい」「何も考えたくない」「何もしたくない」ということだった。それを叶えるための方法の一つとして、死にたいと思った。後者の場合、将来に対する漠然とした不安からくるものなのではないかと思っている。分からんけど。つまり、死が唯一の解決策ではないのだ。一番シンプルでわかりやすいってだけで。

まとめ

 話があちこち行ってわかりにくかったかもしれない。ここいらでまとめておこう。

  1. この世界はフィクションで出来ている。

  2. フィクションは世界を解釈する方法である。

  3. 死んではいけない理由は、信仰するフィクションに依存する。

  4. よりよく生きるためには、適切なフィクションを採用する必要がある。

こんなもんでしょうかね。はっきりとは書いていなかったこともあるが、大目に見てほしい。

 最初の問いに戻る。「死んではいけない」ことの、理論的(宗教や一般的な道徳を度外視した)な理由。それは、「ない」。冷たいけど。でも、自殺しそうな人をノータイムで止める人が一人もいなくなったら、そんな世界は寂しいとも思う。

 かく言う私も、日々薄らぼんやりと「死んでしまえたらな」とは思っている。今のところ踏みとどまってはいるけれど。ここで決行してしまったら、事故物件になったことによる損害賠償とかクリーニング代とか葬儀の費用とか、いろいろ困るので、とりあえず今は生きてみようと思う。迷惑のかからん死に方も無いと思うけどな。

 「なーんかどうやら生きてた方がいいみたい」なので、せっかくだし楽しそうなこともやりたいことも全部やってやろうかな、と思っとります。大抵の場合、死ななくてもいい方法があるので、まずはやるだけやってから死んでもいいんでないかな。知らんけど。衝動的に「死にたい!!!」ってなってる人は、多分一回どっかでゆっくり休憩したほうがいいと思う。あくまで私の経験だけど。頓服薬もあるし。

おわりに

 まとめが長い!もう一度ざっくりまとめると、「死んではいけない理由はない」が、まぁなんか知らんけど生きてた方がいいっぽいから適当に生きていこうぜって感じ。いっつもそんなんだな。

 最後まで読んでくださってありがとうございます。またこんど。

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