これでいいのだ
思えば何かを習ったり、学んだりしたことはなかった。とくに好きなことは。
音楽に関しては、ただ好きだったからそれで良かった。いまだに何かを極めようと思ったり、上手になろうとしたことはない。それはただやりたかったからで、習ったり、練習したりすることが嫌いだったからだ。
人によってはそれが楽しいのだろうが、僕はそれがとにかく苦痛だし、楽しくない。反面、楽器がヘタクソだしそのコンプレックスはあるのだけれど、練習したり誰かに師事してやろうと思ったことは一度もない。そう考えただけで途端に面白く無くなるからだ。上手に越したことはないのだけれど。
高校生の頃から気がついたら自分で曲を作り出していたし、最初に買ったエレキギターもロクに練習せずに、結局シーケンサー(曲をプログラムして作曲する機材)をいじるのが楽しかったから、その機材で曲を作っては当時加藤賢崇さんがやっていたトロイの木馬というFM番組にデモテープを送ったりしていた。番組が1991年1月~1993年9月にやっていたというから、僕が18才ぐらいの時だ。番組の中で送られてきたデモテープの中から良いものを紹介してくれるコーナーがあって、素人ながらもラッキーなことに度々お褒め頂いて、その週の優秀作などに選ばれたりした時はとても嬉しかった思い出がある。今思えばその時録音したテープなど残しておけば良かったが、そう言ったものは一切残してない。ギターもコードだけ分かれば良かったから、ギターで曲を作ったりもしていた。ギターは今もロクにちゃんと弾けない。
バンドブームという頃も、例えば誰かの曲を練習したりすることも全く面白いと思わなくて、そういったことはやらずに今までやってきた。それが良いとは思わないのだけれど、ただ自分としてはそれが楽しくなかったというだけのことだ。いまだに友達からも下手くそなどと言われて落ち込むこともたまにあるのだけれど、だからと言って上手くなろうとか、楽器を練習しようと思ったことはない。特に歌などはひどいものだ。僕としては自分の作りたい音楽を作れればいいし、頭の中にあるイメージを具現化するための道具として楽器があるだけで、自分のできる範囲でできれば良かった。とは言え数少ないけれど作品としてかたちにしてきた自負はあるし、それなりに評価もされ、ある程度満足がいっている。
幼稚園の頃、僕は音楽が大嫌いだった。
それは、やりたくもないのに無理矢理ピアニカを吹かされたからで、特にみんなと同じように、間違えたらいけないという強迫観念みたいなものを感じて本当に嫌だった。その時の感覚は今になっても昨日のことのように思い出されるほど強烈な体験だった。それは音楽に限ったことではなく、とにかくみんなと一緒にしないといけないということが嫌でしょうがなかった。だから子どもごころにピアニカが壊れたふりをして、できるだけ吹かなかった。先生には迷惑をかけたが、本当に嫌だったので必死の抵抗だったのだ。
それが気がついたら大人になった今、人前でピアニカを吹いていたりするから人生とは不思議なものだ。それでも自分で上手いと思ったことはないし、ただ楽しいから吹いているだけだ。
今、あすか一座という名前で飛鳥の友人たちと月に一回集まってはフリーセッションしているが、毎回即興でこうしなければいけないということもなく、その時その時生まれる音楽の瞬間瞬間が本当に楽しい。実際自分としては演奏力のなさに少々がっかりしたりするのだけれど、楽しいを優先してできる範囲でやっている。雰囲気だけは心得ているつもりなので、それで良しとしている。先日のスナックかずこでのセッションも本当に楽しかった。テキトーにピアニカやブルースハープを吹いたりしていても、自信を(下手なのに!)もって吹いているからバイブスだけはあるつもりだ。この週末にもキトラ古墳歴史公園の田んぼで田植え祭があり人前で演奏するけれど、とても楽しみだ。
バカボンのパパの名言《これでいいのだ》は素晴らしい魔法の言葉だ。
悟りというものがこの世にあるとしたら、これこそが悟りなのだと思う。常識や世間の目、誰がどう言おうとなんと言われようと、自分がこうと決めたらそれでいいのだ。ただそれだけの話なのだ。
そんなわけでマイペースに、下手ながらもこれからも引き続き音楽はやっていくことだろう。このnoteだってそうだ。自信があればそれでいいのだ。《楽しい》を優先に、今までもこれからも。
追記
嫁が深夜(3時!)にギターの練習をしていて、あまりにうるさくて眠れずにこのnoteを書きました。
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