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これまでに読んだランニング本いろいろ①

先日ふと、ランニングに関する書籍をこれまでどれだけ読んだかなと思い、本棚から取り出してみた。それがトップ画像の11冊。
他にKindleで読んだ本もあるけれど、今回は割愛する。

普段、速度はまったく気にせず、ランニングフォームも意識せずにテレテレ走っているだけなので、いかにタイムを上げるかという走法的な著作は読んだことがない。
走るモチベーションを上げてくれる本とか、走ることと生きることについて語られた本が多い。
私にとって、この11冊はどれも大切な作品だ。

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「走る意味―命を救うランニング」(金哲彦、講談社現代新書)

著名なランニングコーチ、金哲彦氏の回顧録。走ることが大好きだった幼少期を経て、大学時代は箱根駅伝で活躍し、リクルートに入社後は選手、コーチ、監督を歴任。

その後は現在に至るまで市民ランナーの指導や執筆、テレビ出演など、幅広く活動されている。
フル最高タイムは2時間11分48秒。

全力でマラソンに人生を捧げてきた著者であるが、2006年、42歳の時に自律神経失調症と診断され、その後、大腸ガンに罹患。

死の恐怖と戦いながら壮絶な闘病生活を続け、2007年にはオーストラリアのゴールドコーストマラソンに参加して、5時間42分で完走したというくだりに胸を打たれた。

私を悩ませているガン再発の恐怖や死への恐怖がなくなったわけではありません。しかし、フルマラソンを完走できたことで、一つの大きな踏ん切りがついた気がしました。

(24ページ)

本書が出版されたのは2010年。そしてその後ランニングを通して知り合った奥様を、今から数年前にガンで亡くされたようだ。

2024年3月15日にNHKの「ランスマ倶楽部」という番組で、還暦の金氏が亡き妻に捧げるためにフルマラソン3時間切りに挑戦したらしい。
知らなかったので観れなくて残念。

著者以外にも、ガンと向き合いながらランニングを続けている人たちは世の中に少なからずいるのだろう。その人たちにとっての走る意味の深さはいかほどばかりかと、遠くから思いを馳せる。

たいして走ってもいない私ごときが語れることでは到底ないけれど、生きるとは、走るとは、なんと苦しく、そして尊いことだろうと思う。

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「新型コロナ時代のランニング」(金哲彦、KADOKAWA)

こちらも金コーチの本で、私が2019年春にうつを発症してから約1年半後に発売された。心身の調子がだいぶ落ちつき、ゆるゆるランニングができるようになってきた時期だった。

パンデミック下で、当然ながらマスクをつけていないと睨まれた頃だ。私がいつも走るルートの木の幹に、「ランニングをする方は必ずマスク着用を守ってください」と書いた紙がいつからか巻きつけられていた。

マスクの下でゼーハー息をしながら、うつ発症によって自分が失ってしまったものや、それによって露呈した自分の弱さ、醜さを直視して、なんとか折り合いをつけて生きていけるように、ゆっくり歩を進めていた時期だった。

4年近く経った今、「あの頃の私、けっこう頑張ったよな」と、なつかしく思い出す。

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「BORN TO RUN 走るために生まれた―ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”」(クリストファー・マクドゥーガル著、近藤隆文訳、NHK出版)

いやはや、世界にはとんでもないランナーたちがいるものだと感嘆させられる。まさに「走るために生まれた」人々がこの世にはいるのだ。

日々、信じられないほどの距離を当たり前に走っているメキシコのタラウマラ族との関わりを通して、著者は、厚底シューズではなく。裸足に近いベアフットシューズで走るべしと主張する。

うーん、素人の私にはわからないけれど、本格ランナーたちにとってはそうなのかな。

ちなみに私はウルトラマラソンには生涯参加することはないけれど(どう考えても無理・・・)、100kmウォーキングはいつか出てみたい。
日本全国あちこちでやってるもんね。「富士山一周ウルトラウォーキング」とか面白そうだ。

実際やってみたらきつすぎて、面白いどころの話ではなくなるだろうけど。人生で一度ぐらい挑戦してみようか。

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「走ることについて語るときに僕の語ること」(村上春樹、文藝春秋)

ランニングといえば、やはりこの御仁にご登場願おう。
長年にわたるランニングの習慣が、世界のハルキ・ムラカミの創作活動を支えてきたという。

本書の中で最も心に響いたのは、わざわざ心身共に苦しい思いをして走り続ける人生について記した以下の文章である。

苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

(230ページ 7-12行目)

そんな人生がはたから見て――あるいはずっと高いところから見下ろして――たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。

(231ページ 2-10行目)

私のへっぽこランニングも、「底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る」。

そしてそこから生まれたささやかな自信は今後、私が生きていくのをたしかに支えてくれるのではないか。
そう思わせてくれる村上氏に、深く感謝している。

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長くなってしまったので、5冊目以降は次回に。

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