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救国の予言講演 1973~74年 3 国際勝共連合会長 久保木修已氏 怨みに酬いるに徳をもってなす



今日の日本の繁栄は蔣総統のお蔭


皆様も御承知のように、大東亜戦争で戦ったそれぞれの国のトップの人々-スターリン、ヒットラー、チャーチル、ルーズベルトなどはもうこの世にはおりません。しかし、八十才の蔣総統閣下おひとりだけは、その当時の世界の出来事を一番よく知っておられる『歴史の生き証人」ともいうべき方です。閣下は御高齢でもありますし、なかなかお会いすることがかなわないと思いましたが、再三お話したところ「よし、そういうものであるならばぜひとも会ってみよう」ということで三十分の時間をいただいた。
そして、「二人だけで会ってもよい」とおっしゃっていただきましたので、ありがたい気持で、幸運にもお会いすることができました。私は全身全霊を込めて、訴えたいことを訴えていたのでつい一時間十五分にもその時間が延長してしまったのでした。その間蔣総統閣下は、じっと耳を傾けておられました。私は日本人として、なんとしても申し上げておかねばならないと自覚致しまして、四つ五つの事柄について蔣総統にお礼を申し上げた次第でした。「それは、終戦直後、赤茶けたトタン屋根の下で、防空どうの中で、フスマみたいなものを食べながら明日のことを考えるいとまもないようなわが日本民族が、まことに悲惨な状態にあった時です。その時すでに、アメリカを中心とする連合軍は、この日本に対する『占領政策」を立案して、実行に移そうとしたときでありました。その第一は、この日本の北方領土をソ連が、本州をアメリカが、四国を英国が、九州を中華民国が、と四ヶ国で分割統治にするという戦後処理が決定されていたといわれますが、そのときに閣下、あなたは立ちあがって『日本を分割統治するような考えを持ってはならない。それは東洋の安定につながらない。日本自身の問題としても、それは決して特策にはならない。わが中華民国も、九州などを分割統治する考えは、いささかも持たない。ゆえに、他の国もこれは遠慮すべきです』と決然とおっしゃっていただき、その一言のお蔭があったから、今日の我が日本があるのです。そうでなければお隣りの韓半島の様に、未だに三十八度線を境として親子、兄弟が顔を合わせることも言葉を交わすことも出来ない立場に立ったはずです」。敗戦国である日本は、この蔣介石総統の一言で民族分断の悲劇を味あわなくても済んだのであります。ゆ先に今日、北海道から沖縄まで、どこに行くにも全く支障がないのであります。しかもなお、蔣総統は、積年のソ連の南進政策をもののみごとに防いでくれたのです。あのとき、もしソ連が、どさくさにまぎれてこの日本に進駐していたら、ソ連はこの日本を手放すでしょうか。占領期間が終わったとしても、なんのかんのと居座り続けるでしょう。一体この日本という国は存続し得たでしょうか。

ソ連は天皇を戦犯扱い

わたしたち日本民族はいまこのように平和の中に安住していますが、あのときの蔣介石閣下の一言がなければ、わたしたちは今日生きておれなかったかも知れません。あるいはまた、分断された民族の悲劇を味わっていたかもしれないのです。さらに、天皇制の問題では、ソ連が最も激しく言い張り「日本の天皇を戦犯第一号、絞首刑の第一号にせよ」と毎日強く迫っていました。そのとき蔣介石総統は力強く立ち、「ソ連は何を言うのか、天皇制の問題は他の民族がとやかくいうべき問題ではない。それは日本民族の自主性にあくまでも任せるべきである」と言われたので、ソ連はあきらめざるを得なくなり、今のような日本があるのです。

巨額な賠償金を却下する

また、その当時、五百億ドルの賠償金がこの日本に課せられていました。五百億ドルといいますと今にあっても気のつきはてるほどの金額であります。今日の日本の貨幣価値(円)に換算してみると、なんと一千億兆円以上にもなるそうです。今年の日本政府の総予算は一七兆八千億円強ですから、それに比べてもまさに気のつき果てる額のお金であります。戦後三十年間、われわれ日本人が汗と涙を流して一生懸命に働いてためたお金を全部払ってもなお、足らないほどであります。防空ごうの中や赤茶けたトタン屋根の下で、ひもじさに泣いていた当時の日本民族が、もし、この賠償金を払わなければならなかったとしたら、果してどういう状態になっていたでしょうか。
その時に、蔣介石総統は「そんな巨大な賠償金を(当時の)日本に課すようなことをすれば日本民族は再び、永遠に立ち上がることはできない。そんなむごいことを中華民国としてはできない。わが国は日本から一銭も貰うわけにはいかない」と言われたのです。このように戦争で一番被害を受けた中華民国の最高責任者が、そう言われたのですから、他の国々は自分の主張を遠慮せざるを得なかったのであります。そのお蔭で、わたしたちの日本は、今日このような繁栄をなし遂げ平安な状態にあるのです。あるいはまた、当時二百五十万といわれた中国大陸に残っていた日本の軍人と民間人を、ほとんど無キズで祖国に帰してもらったのです。今まで歴史上で、世界中のあちらこちらで幾多の戦争が行なわれたけれども、敗戦した国の人間が敵地から無キズで、しかも二百五十万もの人間がこぞって祖国に帰れたということは、未だかつて一度もありませんでした。このような例は、わが日本民族だけであり、これも蔣総統の一言のあたたかい言葉のお蔭であったのです。

矜持を持って欲しい

私は蔣総統との会見で、「実は閣下、私はあのとき中学一年生で北京におりました。敗戦を北京で迎えたとき、私は何のことかよくわからなかったのですが、私の母などは八月十五日も買物に出かけていって、半殺しになって帰ってきたのを今でもよく覚えています。しかし、日本人が悪いことをしたのですから、その報復手段として中国人が暴動を起こしたとしても、これは当然であり、受けなければならないことでした。一方、当時、少年だった私の目に焼き付いて離れなかったのは、あの時、蔣閣下のお名前で大きな紙に黒々と、中国人民に告ぐ」と書かれ街角のいたるところに張りめぐらされていた光景であります」とお話ししました。そして、やがてこれは中国全土に張りめぐらされ、またラジオを通して何度も何度もくり返されたのであります。
その内容は、「中国国民は矜持を持ってくれ。たしかに、中国国民は日本帝国主義者から千秋万代の決して忘れることのできない悲惨な、怨多い数々の仕打ちを受けた。けれども、それに怨を持って返してはいけない」という『怨に酬いるに徳を持ってせよ』というあの有名なものだったのです。このおふれが北京の街のいたるところに張りめぐらされてからは、それまでの中国人の日本人への暴動は一切起こらなくなったのです。そのお蔭で、わたしたちはこの日本に帰ることができたのでした。

敗戦国に手荷物を持たせる

当時、中国軍の最高司令官であり、また日本人を本土に返す最高責任者であった何応欽将軍にお会いしたときに、将軍は次のようなことを私に言われました。
「久保木先生、あの時、私の所には日本政府から『二百五十万の同胞を返す時には、荷物を持たせないで返して欲しい』という要請がしばしばあった。しかし、私は最高責任者として、その要請を自分の責任で握りつぶしました。そんな非情なことはできなかったのです。人々が日本に帰られるときは、もうそこは寒い冬でした。その寒空で、もし毛布一枚もなければ多くの日本人がこごえ死んでしまう。ゆえに、私は『日本人はできる限りの荷物を持って帰ってよろしい』と命令を出したのです。ところが、これを知った連合軍から次のような激しい非難を浴せられました。『何応欽将軍!なぜ、あなたは敗戦国の日本人をそんなに優遇するのか。中国国民こそ家を焼き払われ、戦火の中にあって食べる物もなく、着る物もないままに、路頭に迷っているではないか。日本人のものはそれこそ、そのような人にあげるべきなのに、なぜ敗戦国の日本人に荷物を持ち帰らせるのか。』またなぜ、あの時日本政府が、そのような要請をしたかというと、それは仕方のないことでもありました。当時の日本は今日のように新幹線などあろうはずもなく、戦争で交通事情は最悪の情勢にあり、人々は列車の屋根に登ったり、窓から出入りすることなどは当然のことでした。ところが、二百五十万という人々が、たとえ風呂敷包み一つだけを持って引揚げてきたとしても、交通事情はとんでもない混乱を起こすと考えられました。だから日本政府としては、とにかく丸裸で帰して欲しいという要請をしたのです。しかし、私はそんなことはできないと握りつぶしてしまいました」

神あらば日本は許されない

私は思わず、隣りにおられた蔣介石総統に「閣下、あなたのそのお志と、お気持を察したこのような囲りの方々の御努力のお蔭で私達日本人は、今日かくのごとくあるのでございます。しかるに、その日本はその蔣総統の御恩義を忘れて、大平外務大臣は一回の記者会見の談話発表だけで、中華民国と国交を断交してしまうようなことをやってしまったのです。しかし、こんなことは神あらば、天あらば決してこの日本を許しておくはずはありません。そう考えると私たちは残念で残念でなりません。政府が、中共と国交を結ぶこと、そのこと自体は悪いとは言わないが、それだからといって、大恩ある蔣介石総統閣下および中華民国を裏切ることがあってはなりません。にもかかわらず、現実は願わざることとなったのです。私は日本人として非常に恥しく思います」とこう申し上げました。

立派なのは真の武士道精神

その時、蔣介石総統は、じっと私の話を聞いて下さり、「久保木さん、そのように間違えては困ります。
私はかつて日本陸軍の士官学校の生徒であり、軍人でありました。あの時の、士官学校のすばらしい教官の先生たちは、『日本人の本当の大和魂とか、真の武士道精神というものは、どんなことがあっても恨みに対しては恨みを持って返してはいかん、むしろ徳をもってせよ』ということを教えていました。言葉は同じではないけれど、あらゆる立場を通じて、私達に教えてくれたのです。それが私の肌身に着いているのです。私はそれを、日本の皆さんが一番困ったときに実行したに過ぎないのです。もしお礼をいわれるとするなら、その当時のすばらしい日本の指導者の皆様に申しあげて欲しい」と言われたのでした。私はそれを聞いて、もうどうしてよいかわからないような気持になりました。そして、そのときに相馬灯のように頭に浮かんできたことは日本の経済界のことでした。これまで中華民国とは貿易その他の関係を深めてきたのに、少しばかり中共に利益があると見るや否や、われ先にと、中華民国とのそれまでの関係を断ち切って、中共へ中共へとくらがえしていったあの大人面した日本の財界人。この人々の顔が頭に浮かんできたとき、私は本当に煮えくりかえるような気持ちになったのでした。いったい日本の大和魂や武士道精神というものはどこへ行ってしまったのか、かえって中華民国に残っているのではないのか。あるいはお隣の大韓民国にあるのではないのか、そう思うとなんとも言えない淋しい悲しい気持がしてなりませんでした。

国連ビル前で三日間の断食

私はこの蔣総統との話を終えてすぐ、アメリカに飛び国連にまいりました。当時国連では、あと一週間後の総会で、中華民国が残るか、中共が入るか最後の票決が行われる日が迫っていたときでした。世界の耳目が沈黙した国連ビルの中に集中しており、世界の報道陣が注目していました。私は「今日本のマスコミは中共へと流れて、偏向した記事を流し続けているけれども、しかし、それは良識ある国民全体の気持ではない。日本人は決して、中華民国に対する信義を忘れるような、そういう民族ではない。世界の人々よ、決して日本を誤解して欲しくない!」という気持ちで、国連ビルの下で『中華民国支援の断食」を行ないました。国連ビルの前には小さな公園がございます。その前で、アメリカ人に訴えたところ、四十数名のアメリカ人が「よしミスター久保木!私達も一緒に中華民国のために断食しよう」ということで私に賛成してくれました。このアメリカ人と一緒にそこで座り込み三日間の断食をしました。ところが、これはテレビで全米に放映されました。すると、「日本人がアメリカにまでやってきて、中華民国のためにアメリカ人に呼びかけて断食をやるということは、いったいどういうことなのだ」ということで、大きな反響があったのでした。しかしながら残念なことに、結局は、私たちのこの小さな動きは、時の大きな潮流に押し流されてしまったのです。


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