読むことは、書くこと。
活字中毒のきらいがあります。
例えば、こんな感じ。
◆ 出掛けるときは必ず文庫本を持つ
(読み終わりそうな時は2冊持つ)
◆ つい字幕を追ってしまう
(音声が日本語であっても尚)
◆ 飲食店でメニューを熟読してしまう
◆ 商品説明の長いECサイトが好き
◆ 毎年、国語の教科書と便覧を読了していた
◆ レシピは動画よりテキストで確認したい
◆ スマホでも結局、文字を読んでいる
(よってギガが大いに余る)
職場では9割方、メールかチャットでやり取りしています。
毎日の通勤中も読書しているか、スマホでニュースかネット記事かnoteを読んでいるか…という生活です。
よって、わたしは起きている間
ほとんどの時間を文字を読むか
書くことに費やしている。
…
ということに気付いたのは、noteを始めてからです。
noteで色々書いていると結局自分に帰着して、向き合う羽目になりました。
その過程で、自分の活字中毒っぷりに思い至ったのです。
自分探しの旅に出るのも良さそうですが、色々な事情で難しいならnoteを書いてみるのもいいかもしれませんね。
タダだし。
わたしがnoteに書いたことは、みんな自分で考えたことです。
誰かの文章をコピー&ペーストして載せるようなことは無いし、引用する場合は出典を明記するよう心掛けているし。
でも、本当に「自分で考えたこと」なんて、実はほんのポッチリで、今まで体験したことや聞いたこと、そして読んだものがわたしの中に澱のように溜まっていって、それが時々、表出しているだけに過ぎないのかもしれないな、と思うことがあります。
逆に、家族や同僚が「最近気付いたこと」について話しているとき、何か覚えがある内容だなと思いながら聞いていると、「それ、1年くらい前、わたしがあなたに言ったことじゃん」と思うこともあります。
わたしの考えを盗んだとか
わたしの話を我が物顔で話している
…というわけでは、ないのでしょう。
1年前にわたしが話したことが即座に腹落ちせずとも意識下に少しだけ沈んで、それから今までの間にどこかで見聞きしたことが溜まり、噛み砕かれ、満を持して「自分の意見」として湧き上がってきた、ということなのだろう、と解釈しています。
わたしは他者の影響を受けているけれども
わたしもまた、他者に影響を与えている。
相互に少しずつ、影響を及ぼし合っている。
***
なんだか知らないけれど、わたしは読まずにはいられません。
その結果として、書くこともやめられないのかもしれません。
息を吸ったら、吐かないと苦しくなりますものね。
わたしにとって書くことは
自分の今までの生きた道を辿ること。
その表出方法が人によっては絵画であったり、歌であったり、小説であったり、詩や短歌や俳句であったりする、ということなのでしょう。
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