おばさんになれて、わたしは嬉しい
以前、大病を患ったことがあります。
病名を告げられたとき「あ、わたし死ぬのかも」と思ったものです。
お医者さんの前では、はぁ、手術ですか、そうですか、というような淡々とした受け答えをしていましたが、家に帰って夫に詳細を話していたら感情がふるふると溢れてきました。
わたし、死ぬのかもしれない。
死にたくない。
そう言って、泣きに泣いたのを覚えています。
それまで、生きることについてそれほど嬉しい!楽しい!大好き!と思っていたわけでもなく、なるべくアップダウンの少ない道を慎重に選びながら、ゆるゆると歩んでいました。
自分がいつか死ぬことを、しかもそれは遠い未来の話ではないかもしれないことを、知ってはいるつもりだったけれども、わたしはこのとき初めて、実感したのだと思います。
その事実に気付いたとき、自分から「死にたくない」という言葉が発されたのは意外で、そうだったんだ、わたし生きたいんだと、他人事のように思いました。
手術は無事成功し、経過も順調で今に至るわけですが、あのとき「死ぬのかも、でも死にたくない、生きたい」と強く願ったことは、わたしの中の何かを決定的に変えたような気がしています。
ある程度歳を取ると、誕生日を喜べなくなる人は多いと思います。
でもわたしは、しっかりおばさんになった今も、誕生日が嬉しいのです。
白髪とかシワとかシミを見つけたときも、おおーこんなのが出てくるくらい歳を取れたんだな、という気持ちになります。
だから今のところ染めたりレーザー照射したりすることなく、そのままにしています。
わたし、40年も生きたのよ、
すごいでしょ、という誇らしい気持ちで。
いつまでも若々しくありたいという気持ちは自然なことでしょうし、わたしよりももっと大変な経験をされた方でも、誕生日が嬉しくない人はいらっしゃるでしょう。
その気持ちを否定するつもりはありません。
でもわたしは、おばさんになれたことを心から寿いでいます。
もしかしたらお婆さんになれるかもしれないことも、嬉しい。
今、わたしは「おばさん」という単語を、少しもネガティブなものと捉えていないので「もうおばさんだから…」という卑下の仕方は、しません。
病を得たことを喜ばしいことと思っているわけではありませんが、あの経験も確実に、今のわたしやわたしの物事の捉え方に大きく影響を与えているんだなと思うのです。
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