愛も情も無い、くらいが丁度いい
女性活動家、伊藤野枝の生涯を綴った小説『風よ あらしよ』を読みました。
小説の感想はまた別の機会に書くとしまして、今回は野枝のパートナーである大杉栄の心情を記した一場面から、勤め先の会社との向き合い方について思ったことを書こうと思います。
大杉栄は一時、軍隊に属していたことがあって、小説の中で本人がその頃のことを振り返ったときの気持ちがこのように表現されていました。
上官に決して逆らってはならない軍隊という特殊な場だからこそ、これは服従か、それとも盲従なのか…と悩むことになるのでしょう。
一方、令和の世において会社に籍を置き、一応正社員として働いているわたしは、上司や雇い主に対して服従も盲従も、するつもりも必要もありません。
会社は、労働の対価として給料を受け取る場だ、と認識しているからです。
なかんずく、昇進も出世も無い事務員であるわたしには、上司や役員に忖度したり、媚びへつらったり、付き従ったり空気を読んだりすることで得られる利がありません。
だからわたしは会社に対して、あなた方に従うつもりはない、おかしいことはおかしいと言うし、黙らないし、必要とあらば出るところに出る、それでも我慢ならざる場合は労働者の権利である退職届を提出する構えだ、という思いを内に秘めながら、素知らぬ顔で働いています。
…
最近、わたしが今勤めている会社の最大のメリットは「管理されない(するつもりがない/できていない)」ところだ、ということに気付きました。
入社以来お叱りを受けたこともなく
基本的に放っておいてくれるところ。
上司が部下の仕事量を把握していないので、到底1人ではこなせない分量の業務を、信じられない時期に丸投げされる危険性も孕んでは、います。
ただ、ミスさえせずに自分の仕事をこなしていれば、介入も追及もされず、割合自由にしていられるこの環境は、自由を愛するわたしにとって過ごしやすく、文句を言いつつもついうっかり、長年勤めてしまいました。
このままでは、勤続年数で表彰されてしまう勢いです。
愛社精神、皆無なのに。
『風よ あらしよ』の表現を借用するならば
「尊敬も親愛も感じられない連中」が上司だからこそ、死ぬ気で頑張ろうとも、本気で努力しようともせず、のんべんだらりと仕事することが出来ているのかもしれません。
会社に愛は無いし
情も無い。
伊藤野枝には呆れられそうだけれども、死んだ魚のような目ですべき仕事をこなして定時で帰ることを信条とするわたしには、今の環境が適している、と言えるのかもしれません。
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