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ふてほどは多数派の物語、だからモヤモヤするのかも

不適切にもほどがある!(通称:ふてほど)というドラマについて、先日「中2男子には昭和がよく見えるのかもしれないけど、わたしは絶対戻りたくないし、まじで無理」という記事を書きました。

若い頃から、数々の宮藤官九郎作品で励まされてきたわたしは、このドラマに第1話からずっと大いなるモヤモヤを抱きながらも視聴し続けてしまい、でも夫以外の周りの人々は大体「クドカン面白い!」「最高!」論者で、わたしの感じた違和があまり伝わらなかった故、noteに長めの駄文を書き綴ることにしました。

もし、ご興味があれば読んでいっていただければ幸いです。

***

昭和から、平成を経て令和を迎えた今、わたしはようやく息が吸えるようになったと感じています。

歳を重ねて楽になったということかしら?と思っていたし、実際そういう面もあります。
若い女カテゴリーからの解放は、僥倖です。

ただ、加齢の効果もさることながら
時代の変遷による作用も大きいと思うのです。

例えば、結婚してはいるが子どもを産んでいないわたしに、ここのところ「子どもいないの?産まないの?産まないと後悔するよ」などと直接言ってくる人がいないのは、これがハラスメントに該当する(発言した側が罰せられる可能性がある)らしい、という認識が定着してきたから、という理由が大きいでしょう。

わたしは、令和のコンプライアンスに救われている内の1人なのです。

先日、件の「ふてほど」第9話を隣で見ていた夫が、ふと呟きました。

「これは、多数派の物語なのかもね。」

なるほど、確かにこのドラマには多数派しか登場しません。

日本に日本人として、中流以上の愛溢れる家庭に健常者として生まれ、性別と性自認が一致する異性愛者で、長ずれば新しい家庭を築き子を設けることが「普通」だと認識している人々。

一瞬、登場人物の1人(秋津)がアロマンティックにあたる、かもしれない展開がありましたが、説得?されて最終的には異性に恋愛、していましたし。

コンプライアンスが厳しくなったことで、わたしのような「普通」から外れた人間は確かに恩恵を受けています。言動に気を遣う不自由も微かに感じますが、それはお互い様だし、マイナス面を差し引いても今の世の方がだいぶマシ。

一方、「普通」から外れたことのない人にとっては感じ方が違うのかもしれません。
昭和は、「普通」から逸脱することを許さない代わりに「普通」の人にはひどく寛容な社会でしたから。

昭和から真っ直ぐに多数派街道をひた走り、振り返る必要に迫られなかった人、大勢の意見に疑問を持ったり、人と違うことで笑われたり踏みつけられたり傷つけられたりしてこなかった人にとっては、令和は面倒くさい、窮屈を強いられる世の中だ、という印象になるのでしょう。

だって
少数派は多数派の顔色を窺いながら
生きざるを得ないけれど
多数派は少数派のことを考えないでいられる
特権を持っていますから。

考えないで生きられるという「当たり前」の特権を、うっすら奪われそうな昨今、彼らは初めて息苦しさと不当感を感じているのでしょう。

「普通」から外れているが為に、息苦しいどころか窒息しそうになっている(た)人のことなんか、そちらからは見えていませんものね。

わたしが「ふてほど」を見て笑うことが出来なかったのは、なぜコンプライアンスが重視されるようになったのか、なぜハラスメントはいけないのか、その部分を描かずに、極度に一方的な視点で笑い飛ばして軽視するような場面が、余りにも多すぎると思ったからです。

一時的な「不適切」なセリフとしてならまだしも、どう贔屓目に見ても考証が甘すぎる為に、最終的な結論や解決方法にも毎回、大きな不備があるように思うからです。

みんな自分の娘だと思えばいいんだ、とか
(娘を所有物のように扱う親は今も多い)

働き方改革推進より1人で抱えた方が楽とか
(それは改革の仕方に問題があるのでは)

パワハラ上司も人の子だとか
(パワハラを受ける方も人の子ですけど)

また、作り手が主張したいのであろう結論に持っていく為に登場したとしか思えない、不自然で極端な人物も散見されます。
(インティマシーコーディネーター回や、アウティング&マタハラ回など)

多数派として生きてきた人の、勝手に少数派に分類されて踏みつけられたことが無い人の、これが想像力の限界なのだろうか、という失望を抱きつつあります。

しんどければ見るのをやめればいい、と思いながらも、次回こそ、次回こそと期待し続けてついに今夜、最終回です。

このまま終わってしまうのか、最後の最後でどんでん返しが待っているのか、楽しみのような、怖いような気持ちです。

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