映画音楽鑑賞会@映画サークル、そしてアクション映画の見方(日記4)

昨日映画サークルの皆さんと、映画音楽専門のコンサートに行ってきました。ん、待てよ。日記って過去のこと書いていいんだっけ?昨日までならあり?記憶が鮮明ならOK?あるいは、今思い出してるならすべての過去は現在の経験として日記に書けるのだろうか。日記素人すぎてなんもわからん。まあとにかく忘れないうちに書くぞ!

今回は愛がテーマらしく、ラ・ラ・ランド、ゴッドファーザー、ニュー・シネマ・パラダイス、海の上のピアニスト、カサブランカ、アバター、ラブ・アクチュアリー、タイタニック、シザーハンズ、ブレイブハートなどが演奏された。アンコール?で風と共に去りぬも。

各曲の感想めいたもの。風と共に去りぬの音楽はスカーレット・オハラの波乱万丈な生涯と強固に結びついていて、否が応でも感動させられてしまう力があるなと思った。ブレイブハートのバグパイプも、ウォレスの土着的な愛国心を喚起する象徴的な存在感があった。やはりナショナリズムと音楽の結びつきは強い。他に印象に残ったのはアバター。期の逃したために観てないが、音楽がカッコよかったのでますます見逃したことを後悔した。流行りものに対する対抗心というのは愚かだな。

正直映画音楽に対してあまりアンテナを張っていなかったので、ここはすごい盛り上がった!というのは少なかった。それでもモリコーネの音楽は雄大でありかつ繊細で、まるで映画の情景が浮かんでくるかのようだった。トルナトーレ作品はだいぶ昔に観たせいかぼんやりとしか思い出せないが。見直したい!演奏の合間にいちいち解説がつくのだが、やはりこのモリコーネについては気合が入っていた。最近やっていた彼についての映画を見逃したことを後悔……って私は後悔してばっかだな!すべてのコンテンツを享受することはできないので仕方ないのである。


その後の食事会デニーズにて。今回はバランスの良いコミュ力と映画への造詣を兼ね備えた人たちが多く、話していて楽しかった。

以下、印象的な会話。アクション映画をどう観るかについてわからないといっている人がいた。私は画面がどう立体的に動くかを見ているといったら驚かれ、その視点はなかった!と感謝された。ようするに、追体験型アトラクションとして映画を観るということである。たとえば、クレイグ版007慰めの報酬序盤の、天板をぶち抜いて落下するシーンなどが分かりやすいだろう。

意外と、この視点は普段他の美術に触れていないとあまり意識されないのかもと思った。各メディアの表現において、絵画には絵画の、彫刻には彫刻の限界がある。その限界をどう超え、どう更新するかが作家に試されていると言えよう。ならば映画というメディアが追及する表現のカテゴリーとして、画面の動き・カメラの動きに着目するのはわかりやすい見方だと思う。娯楽大作系のアクション映画はストーリーが荒唐無稽なことが多く馬鹿にされがちだが、映像表現の可能性の追求としてみればそれなりに楽しめるはずだ。鑑賞のモードを切り替える必要がある。……ただし、ここまで詳細には説明できなかった。この辺の議論はもっともっと詰められる(地形・人物・小道具の三者の組み合わせ方など)。

その後めっちゃ映画に詳しい人が、映画は誕生した時点からすでにアクションだった、と補足してくれた。リュミエール兄弟の列車が飛び出してくる映像も、一つのアクションとして捉えられると。そして映画において注目すべきは横の動きであると。たしかに基本的に横長の画面なのだからその着眼点は正しい。私は縦・横・奥行すべて重要だと思うが。

その人につい先日観たばかりの『君たちはどう生きるか』についての私なりの解釈を話したら、その解釈はありだ!と評価されたので、いつかブログにでも書き起こしてみたい。昨日の今日なので、感想を話すだけでも一人で勝手に感極まって、涙ぐんでしまった。

あとはちょっとリリー・アレンに似ている人がいたのでその人にAs Long As I Got Youのときの髪色にしてほしいとお願いしたり(曲としてはThe Fearがカントリー調で一番好き。最高!!!)、ヴォルデモートが大好きだという人がいたのでサロメ嬢の性癖と同じだと指摘したりした。


対面での会話では言いそびれたことがたくさんあって、翌日はしばしばそのことについていつまでも思いを巡らせてしまう。こう切り返せばよかったなと、シミュレーションを無駄に続けてしまう。発言しきれなかったことは、次に生かせばいいのに。やはりその場の会話の流れが存在する以上、百パーセントは話しきれない。多分みんなそうだろう。だからこそ、そのモヤモヤをこうやって日記に出力しておくことで、少しは頭の霧が晴れるかもしれない。今後また一人反省会を開きそうになったら日記に書き起こすことにしよう。はー、スッキリした!!!!!


追伸:まだモヤモヤは残っていた。それは私の語り口のウザさである。昨日『ドライブ・マイ・カー』の良さについて話したとき、自分語り方めちゃうぜえなと思ってしまった。自分のなかだけで完結しているときにしばしば起こる。かみ砕いて説明できないため、抽象的な言葉でゴリ押してしまうのである。好きな映画については、いつでも話せるようにしておきたいと思った。気にしすぎかもしれない。

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