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-わたしのこと、わたしたちのこと-

私の事・私の家族・これまでの軌跡③


私のこれまでと、私の家族や友人のことを少しお話します。長くなるので何回かに分けて記します。

この投稿は、〜私の事・私の家族・これまでの軌跡①、②の続きです。

※前々回、前回までの事は、埋め込みされたリンクをご覧ください↓(上から古い順)



-私にとっての結婚は、夫と一緒にいる手段で、約束で(多分)幸せも得られて、気持ちも生活も多少は安定して、でも、それまでには乗り越えなきゃならない山や谷なんかはあって、1人よりは2人のが乗り越え易いかも?支え合えるかも?と思ってしたことだった。
籍を入れなくても、事実婚とかでも良いけど、
「一旦、どっちか決めてくれない?」
と、私からの提案に、「結婚」と夫が応えたことによる-

(…これまでの軌跡②から続き↓)

なんだかんだと、バタバタしつつも、結婚生活は始まった。
1番最初こそ、夫と新婚旅行に沖縄の方に行ってきたり、楽しかったが、やっぱり割とすぐに、色々な変化に対しての耐性が弱くて、不安が大きい私の心は不安定が極まっていった。

週末に会う義父は、毎週自宅に帰りたがって、(私の夫)次男では話が伝わらないとわかっていたためか、義兄に「退院手続きをするように伝えてくれ」と毎回のように言われた。

私は苦笑いを浮かべて、黙って頷くこともあれば、
「もう、ここがお義父さんのお家ですよ」
と、誤魔化したような、嘘をつくこともあった。
何が、適切な対応なのか?なんて、きっと誰にもわからなかったけれど、できないことをできる振りをするような嘘だけは、ついてはいけないと思った。

私は、本当の健全な“父性“を知らなかった
実父には、本当は認められたかった。
それだって、実父に認められなければ、生きていけないという子供特有の思い込みで、生き残る為の本能みたいなものだと、『機能不全家族』の知識を得る中で頭ではわかっていたことだった。

治療の為のグループカウンセリングだったかで、回復していけば、欠落していたと思っている、愛情の受け取り方が上手くできてきて、違った形で穴が埋まって行くと教えられた。
というか、既に穴が埋まっていっているから、今、自分たちはここに居るのだと言われた。

なんとも私には、実感もなく、難しい理屈だった。
「そうなの?」
と、疑問がわいたけれど、それはとても漠然とした疑問と不安だった。ピンとこないというか、そうなんだろうけど、回復した自分の姿やビジョンが浮かばなくて、暗いトンネルのなかで、彷徨って行くうちに更に暗くて深い森に迷い込んだ、そんな気持ちだった。
「怖い」
という感覚しかなかった。
対人恐怖で、特に男性恐怖(男性不信)が強かった。自分が女性として(性的対象として)見られることに、嫌悪感もあった。

夫と出会う、少し前くらいから、何となくそういう感覚は程よく鈍ってきて、落ち着いてきていた。
(色々な人がいるので、不安や恐怖の気持ちを全く持たないのは、むしろ危険すぎると学習した)

男女、性別問わず、危険な人もいるし、安全な人もいる。
その人1人の中にも、触れない方が良い部分、安心して触れて良い部分もあり、(お互いが)安心して付き合える関係性や距離感を学ぶことが、私にとっては大切だった。
それは、今も続けている。
人や場面が変わってくれば、方法なんかも変わってくるし、私の気分や状態も違ってくる。

実父はもう今は、亡くなったので、実父から直接何かを得ることはできない。
そもそも、だいぶ昔にとっくに諦めていた。

そこに夫と結婚したことで、義父という存在が現れた。
義父は、私の何が気に入ったのか?会うといつもニコニコと迎えてくれた。
素直に嬉しかった。

施設に訪問した際も、
「あなたに会うと、パァっと明るい気持ちになる」
と、言って喜んでくれた。
きっと、私がなぜ自分の息子(次男)と一緒に居て、やってきて話しかけるのか?わかるようで、わからなかったと思う。
昔の記憶は、とても鮮明なようで、とても詳しく細かく教えてくれた。
戦後の下町は、平屋が多かったとか、家からは富士山が見えたとか…
キラキラした瞳で。
帰り際も、「もう帰っちゃうのか?」と、寂しそうにしてくれて、私の方が切なかった。

だから、帰りのバスで、私が苦しくなって涙することもあった。
隣で夫はキョトンとしていた。
耳がきこえないので、私と義父の会話の内容を知らないからだ。
なんとなく、自分の父と妻がにこやかに何かを話して、楽しそうだったとか、でもなんだか妻は帰りに泣いている。くらいの認識だと思う。

夫は、そういうことが当たり前過ぎて、興味や疑問を持たないのか?
「どうしたの?」
とか質問してこないので、私も説明を怠っていて、ただただ1人の世界で、寂しさや切なさを持て余していた。

そういう事が積み重なって、誰が悪いという訳でも無く、私は抑うつ状態が少しずつ重くなっていた。(④に続く)

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