集中力の無さと生について

最近自分自身の集中力の無さについてよく考えた。

なぜなら仕事やプライベートの調べ事などしていると最初はやる気があり2、30分はものすごい勢いで仕事をこなし、プライベートでの調べことをこなす、ただその後がどうしても続かない、仕事だとやるべきことを最低限終えたら確認作業を怠るその為、ほとんどミスはなくても多少のミスがあり、業務に支障なく契約などに一切の影響はないのだが、自分が求めている完璧のものとはかけ離れてしまい自分だけ焦ってしまっていたり、プライベートの探し物であれば同じく最初は2,30分はパソコンやスマホやらでバーっと調べ物をするが、大まかなものだけ調べ深くまで調べる段階になると飽きてしまっているのかすぐ魔のYouTubeに手が伸び加藤純一の引力に引き込まれており気づいたら2、3時間、そしてハッと思い目的を思い出すが、なぜかそういう時に限り、「あの番組、あのアニメ、あの漫画ってどうなったんだろ」と頭によぎる。

そうすると一度脱線しているせいか罪悪感が薄れており、気になってしまった事の動画を見てしまい気づけば夜深く調べ物も中途半端になり、1日が終わり明日がんばろうという気持ちで終えて、そのサイクルで体が慣れて自分の性格として形成されていく。

そんな自分が嫌であると毎回思い寝る前には「明日から変わる」、「今から変わる」と毎回どちらかの気持ちを持ち次の日に取り組もうと思う。
ただ仕事に支障も来さず、成績もそれなりの評価をもらえ、周りからは逆のイメージを勝手に抱いてもらっている為、危機感を自分自身では一時的に覚えていても、なんだかんだで成立してしまっている事で根本的な部分では危機感として捉えていないのだと思う。

じゃあそれに今気づいたからといってこの危機感という根本の部分を断ち切り新しい人格形成をできるかというとどうも出来ないと思う。
もういい年齢になり、表面的な理想の姿には近づけても潜在的な理想の人格にはなれないんだなと何年もこの葛藤をしていればわかる。
そして今も調べ物、まとめないといけないものをしている最中にふとここに書き込んでいる時点で理想の人格にはなれねぇーなーと確信になった今日この頃。

ただ生きている以上は生きる事に執着をし、薄っぺらいなりに、できる限り理想と現実と向き合い追いつけないなりにも理想という目標に対し、自分の性格上届かない目標を生きる道標としその道半ばで力尽きて死ねればまぁ生き甲斐はありそれなりの人生は迎えれんじゃないかなと思うのでとりあえずそんな堕落しながらも生きていこう。

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