読書記録_能力で人を分けなくなる日

 「あいだで考える」シリーズの最新刊(2024年5月現在)。重度の知的障害をもつ娘さんの星子さんと奥様と三人で暮らしている、1936年生まれの最首悟さんと、10代の参加者3名との4回にわたる対話を収録している。
 第1回で、最首さんは「人の単位はひとりではなく、最低ふたりなんじゃないか」とおっしゃっている。言われてみればそのとおりで、仙人にでもならない限り、一般的には他者との関係を断ち切った状態で生きることはできない。ひとり暮らしで引きこもっていても住居や水や食べ物は必要で、そういった最低限のライフラインを完全にひとりきりでまかなうのはおそらく無理だ。それだけでなく、心の安定という意味でも他者とのつながりを求めてしまうので、だからわたしはいつもつながりが薄くて(ゼロではないのだが)、ひとりぼっちだと感じる孤独感にまみれた自分に対峙せざるをえなくて辛くなってしまう。
 第2回では、津久井やまゆり園の事件と脳死の問題を取り上げて、能力主義の是非について語られていて、ここ数年わたしがよく考えていることに通じる。何のスキルもない、お金を稼げない、家族を養っているわけでもないわたしは、生きる価値があるのだろうか。もちろん、どんな人間にも生きている意味があって命は等しく大切なものだ。それでも、今よりすぐれた人間になりたいという気持ちは拭えないし、社会的に能力が高い人に対して引け目を感じてしまうことはしょっちゅうある。
 第3回は、引き続き優生思想や自己責任、個人という考え方がどこからきたのかについて。西欧では、人間は自然や神と切り離されて、個人として別々に生きている。それに対して、日本は古くからまず「関係ありき」で、共同体の中でつながって暮らしていたのだという。近現代を通じてどんどん西欧的な思想が入ってきて、二つの世界観の中にわたしたちはいて、だからこんなにも生きづらいのだろうか。
 最後、第4回の主題は、水俣病と石牟礼道子さん。患者や家族が社会からどんなにひどい仕打ちを受けたか(今も終わったわけではない)ということにあらためて気づかされた。他者に対してここまで冷たくできる人間のことを、自分も同じ人間なのに、やっぱり怖いと思ってしまう。

 この本で、わたしの悩みのについて解決の糸口が掴めたとは思えず、むしろ問題点がより明確になって、どうしたらいいかわからない袋小路に入ってしまったような感じがした。だけど、わからないということについて、最首さんが「はじめに」でこのように書かれている。わからないことは、克服すべき課題ではないのだ。

 ”わかろうとする努力は、「結局は、わからない」とあきらめるのではなく、〈いのち〉を生きていく希望なのです。”

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