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 子ども頃は、空を見上げる習慣が全くありませんでしたが、歳を重ねるにつれ、空を見上げる回数が増えたように思います。
 ただ青くて、ところどころに雲が漂っていて、直視できない太陽が眩しくあって、テレビの天気予報の、太陽のマーク、雲のマーク、雨粒のマーク、その順に、空は青さを失っていく。
 それくらいの認識しか持っていなかった僕でございましたが、あるとき、正確には覚えておりませんが、遠く離れていても、空を見上げれば繋がっている、というような、果てしない規模のお話を聞いてから、空の広大さを意識するようになりました。
 子どもの頃の僕の世界というものは、家と学校と、少し離れた祖父母の家と、その三点でなるような小さなものでしかありませんでしたから、地球規模でなにかを考えるようなことは全くありませんでした。というより、僕の存在しない遠く離れた別の世界が、どこかにあるのだろう、というような考え方でございました。テレビや、本や、新聞で知る事柄は、現実世界には目の当たりにできないものだろう、とも。
 ですので、空を見上げて誰かと繋がっていたい、というような感覚は、僕にとっては壮大過ぎて、誰がそんなことをしたいのだろう、する必要があるのだろう、と、身近な事柄として受け入れることは到底できておりませんでした。
 ですが、歳を重ねていきますと、三点で構成されていた世界は、自ら足を運ぶことによって広がり、また、知識がそれを広げ、無数の点でなる世界へと変わっていきました。
 悲しい事故、災害、事件、または、喜ばしい出来事が起きますと、人々はその気持ちを、祈りによってどこかへ届けようとするように思いますが、誰もそれを足元に向けて落とすようなことはせず、空のほうに向けて、発していくように感じます。
 日々、さまざまな想いが行き交っている場所が空であり、人々の想いが生きている場所が空であるのだろう、そのように感じるようになりました。
 歳を重ねるにつれ、空を見上げる回数が増えたのは、子どもの頃には抱かなかったさまざまな感情を抱く機会が増えたのでしょうね。どんな感情にしろ、とても人間らしくて良いことだと感じておりますが、できるだけ幸せな気分で空を見上げる回数が増えていってほしいところではございます。
 今日は、空になにを想うのでしょうか。
 分かりませんね。

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