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なぜ私は心技体エクゼクティブコーチになったのか?

私が心技体エクゼクティブコーチになった理由をお話ししたいと思います。


人生最大の危機・・・心が私に「コーチを二人つけよう」と提案した

2017年6月に、
私はIT会社の代表取締役に
就任しました。

私は総合商社に勤務しているのですが、
85%出資の子会社への出向を
命じられたのです。

そして就任一か月後の7月の取締役会、
社長になって初めての取締役会で
「緊急事態」を私は宣言しました。

この会社は11月に資金が枯渇する。
3か月間で私が再建プランを策定するので、
会社が瀕死の状況にあることを
全取締役が理解し、再建に参加してほしい。

取締役会の翌日に10名の社員全員を集め、
こう説明しました。

「開発中の全商品の採算を見直す」
「顧客へ値上げ交渉する」
「不採算商品のキャンセル交渉をする」
「8月から全員でこれらを手分けして行う」

「開発中の全商品の採算を見直す」

そして、社長として資金調達に向けて
銀行や株主との交渉をすると伝えました。

銀行には融資を断られました。

15%出資のパートナーにも資金拠出を
断られました。

営業部長と一緒に全国に出張し、
主要な顧客10社との値上げ交渉をしました。
しかし、全社から断られました。

2017年11月に株主から
最低限の資金拠出がありました。
しかし、同時に事業撤退する方針
告げられました。

つまり、再建を断念し、そして
事業継承先を探すことになりました。
事業継承先が見つからなければ清算です。

2017年5月から前任社長からの
引継ぎを受けました。

その時に困難は予想していましたが、
就任後に自分の目で財務状況や
業務プロセスを確認して、
主要顧客と対話し、
(対話するといっても、
実際は大幅な納期遅れ    
に対する説明とお詫び)、
想像以上に危険な状況にあることに
気づきました。

親会社にも包み隠さず状況を報告し、
そして、着任後わずか6ヶ月で撤退方針が
下されたのです。

事業撤退の方針が決まっても、
それは飽くまで方針です。

撤退の実行策と撤退までの所要資金を
私が作成し、
親会社がその実行策と所要資金を
承認(機関決定)するまでは、
顧客や社員に対し、
撤退について一切言えない
のです。

最終的に顧客や社員に事業撤退を
開示したのは、2018年6月でした。

撤退の方針が決まった2017年11月から
2018年6月までの約8か月間は
私にとって地獄の苦しみでした。

社員達には2017年11月に営業活動を
止めるように指示しました。

社員達から理由を聞かれても、
「撤退する方針だから」
とは言えません。

よって、はぐらかす様な説明をしました。

社員からは、
「社長は会社を潰す気ですか?
 再建するといったのは
 何だったのですか?」
と突き上げらました。

「社長は会社を潰す気ですか?!」
「再建する言ったのは何だったのですか?」

顧客は、営業部長に
「新しい社長は頭がおかしい、
 交代させられないのか?」
と口々に告げたそうです。

週に2、3回は、深夜2時3時まで一人で
事務所にのこり、
営業や製造の資料、財務諸表を見ながら、
撤退プランや所要資金の策定していました。

撤退プランや所要資金の策定を
していました。

でも一番辛かったのは、
そんなことではありません。

一番辛かったのは
社員に本当のことを隠していたことです。
社員に一度も嘘はつきませんでした。

でも、本当のことも言えず、
いつもはぐらかす様な説明を
繰り返していました。

ある日、会議室に間違えて入ったら、
営業部長が部下を集めて、
ホワイトボードを使って、
客先別の営業活動の打ち合わせを
しているところを見てしまいました。

私は部長に対し
「営業活動は中止と言ったはずですよ」
とは言えず、
気づかぬふりをして黙って
ドアを閉めました。

涙が出そうになりました。
心を締め付けられるような、
痛みがありました。

「社員に嘘はつかなくても、
 本当のことを隠し続けていたら、
 嘘をついているのも同じだ。」
「自分には親会社という帰る場所がある。
 でも、事業継承先が見つからなければ、
 会社は清算。
 社員は路頭に迷うかもしれない。」
という思いでした。

オフィスは、神田美土代町にありました。
帰宅する時は、JR神田駅西口まで徒歩で
10分程度歩きます。

神田駅西口商店街は、両側に居酒屋、
ラーメン屋、カレー屋、
ガールズバーが並ぶ賑やかな通りです。

神田西口商店街

毎晩、サラリーマンが
溢れかえるこの賑やかな通りを歩きながら、
いつの間にか私は頭の中で
「自分だけ安全な場所に居て、
 許されるわけがない。」
と考えるようになりました。

毎日、毎日、帰宅時に同じことを
考えるようになりました。

そして、
「社員に本当のことを隠しつづけた自分には、
 いつかバチがあたる」

と思っている自分に気が付きました。

人間は毎日6万回無意識のセルフトークを
しているという研究結果もあります。

夜も眠れなくなりました。
「このままでは、メンタルが壊れる、
 鬱になる、どうすればいい?」
と心で繰り返していました。

ある日、
「神様、助けてください」
と思いました。
(ちなみに、私は無宗教です。)

「神様、たすけてください」

その時、あたかも神様からのお告げのように
「心と身体は有機的なシステムです。
 身体を鍛えなさい。
 そしてコーチをつけなさい」

という解が心に思い浮かんだのです。

私は、35歳からNLPを学び、
今も約20年学び続けています。

NLPとは、日本語では
「神経言語プログラミング」と呼ばれ、
1970年代に
米国でセラピー用途として開発され、
後にコーチング、コミュニケーション、
演劇、スポーツ、教育、能力開発等の
あらゆる分野に展開した実践的心理学です。

少し脱線しますが・・・

35歳でNLPに出会った時、
その「本質的な人間理解」と
「構造化・体系化された技術」
に感動しました。

「自分は本当は能力はある。
 それが思うように発揮できないのは、
 メンタル面の未熟さが原因」

「平常心・不動心が欲しい」

NLPの「状態管理(State Contol)スキル」を
習得すれば、
「如何なる場面でも本来の能力を発揮できる」
と思いました。

複数の場所でNLPを学び、
NLP以外の心理学も学び、
俯瞰の視点でNLPの力を
見極めるプロセスも経ました。

そして、自分は50歳で
NLPをベースとしたコーチになる
と決意していました。

39歳の時に妻と出会い、
42歳で結婚しました。
妻は、私と同じ総合商社勤務で、
つまり社内結婚です。

妻には結婚前に
「俺は、優秀な経営者になりたいと思っている。
 今の会社は、子会社の社長になるチャンスが
 多くあるので、40代はそこで全力を尽くす。
 ただ、50歳になったら、残りの人生は
 本当にやりたいことをやりたい。
 コーチとして独立したい」
と説明しました。

2012年9月 結婚式
「50歳になったら、残りの人生は
  本当にやりたいことをやりたい」
「コーチとして独立したい」

話を戻します。

NLPの基本前提に一つに
「心と身体は有機的なシステム」
があります。

私は深くこれを信じていたました。

だから、「メンヘラ」を回避するには、
心を強くするよりも身体を強くしたほうが
効果的と思えたのです。

もし、筋肉をつけて体を強くしたら、
心が弱くなれるわけがない、
と自然と信じることが出来たのです。

そして私は、2018年4月から
ボディメイクのフィジカルトレーナーと
メンタル強化のエクゼクティブコーチの
2名をつけたのです。

これが人生で一番苦しかった時かもしれません。

その時、私が自分を守るために選択したのは、
二人のコーチをつけることでした。

私は、コーチの潜在的な力、
提供価値を自分が身をもって知っています。
もし、往時の私のように、
困っている経営者やビジネスリーダーがいたら、

「今度は私がコーチとしてあなたを助けます」

それが、私が残りの人生を掛けて
やりたいことだと思っています。

コーチをつけてわかったこと・・・自分の真の課題。

友人のコーチの紹介で
Oさんと言うエクゼクティブコーチが
私についてくれました。
私は、Oさんに事業撤退に関する様々な課題と
その対処策について
コーチングしていただきました。

私が設定するテーマは
いつも次のようなものでした。

  • 重要な顧客に契約キャンセルの申し入れをしに行くのだが、理想的な自分の振舞のイメージトレーニングをしたい。

  • 株主(私の所属する総合商社、親会社)の総責任者(執行役員レベル)に、今後のプランと所要資金の説明に行くのだが、理想的な自分の振舞のイメージトレーニングをしたい。

  • 社員に会社の清算が決定した話をするのだが、理想的な自分の振舞のイメージトレーニングをしたい。

Oさんのコーチングで、
「平常心・不動心」
に近づくことが出来ました。

すべき準備がいつも明確になりました。
不安が解消され、
満足するパフォーマンスが
いつも実現できました。

そのうち、事業撤退については
セルフコーチングができるようになりました。

すると、自分にはもっと大きな課題
あることに気づきました。

Oさんとのコーチングテーマも
変わっていきました。
私は、35歳でNLPに出会ったと
お伝えしました。

でも、NLPスキルを用いて
独力で解消を試みても
繰り返される課題がありました。

それは、

  • 他者比較から生まれる欠乏感に悩まされること。他人を基準にするとどこまで勝っても心は満たされない。本当の自分に辿り着ける感覚が得られない。

  • 人からすごいと言われたい、他人から自分が如何に見られるか、から解放されたい。

  • 他人にもっと感謝したいのに出来ない。謙虚さにかける。視点がいつも自分に向いている。心の奥で他人を下に見ている。

でした。

これらの課題は、小学生の頃から
きっとあったものでした。
30代まではこれらは課題ではなく、
むしろ
私の強みとして成長を後押ししてくれていた
のだと思います。

でも、30代からNLPを実践する中で、
これらは「本当の自分では無い」
感じるようになったのです。

脳(正確には、本能や無意識)には
RAS(脳幹毛様体賦活系)
という機能があります。

  • 人間は興味をもったものだけ、『検索できる記憶』として「意識」に保存される。

  • 興味を持たないことは、『検索されない記憶』として無意識に埋没する。これを心理的盲点(スコトーマ)と呼ぶ。

NLPの中で、

  • 意識(自分の意志)には視点(RAS)は一つしかない。

  • 一つしかない視点(RAS)を意識的にコントロールすることが出来れば、思考習慣を変える、行動習慣を変えることが可能になる、

と学びました。

視点(RAS)と心理的盲点(スコトーマ)

そして、視点には時間、空間、人称、抽象度(レベル)の4つがあります。

私は、Oさんとのセッションを通じて、
自分の視点が
「短期的な自分の損得(昇進、昇給等)」
に偏っていることを痛感しました。

もっと、
「長期的で、他者のために、
 抽象度の高いビジョンの視点」
を持たなければ、
本当の自分には戻れない、
と気づくことが出来ました。

守護者の言葉

30代の時、私はフィリピンの
Christian Mission Service Philippines Incorporated(CMSP)という孤児院
を支援する活動を友人としていました。

子供たちの大学進学資金を寄付するものです。

フィリピンは学歴社会のため、
孤児で高卒だと苦しい人生を
歩むことになるのです。

2007年8月 CMSP訪問

その活動メンバーの一人にEさんがいました。

Eさんは、私より20歳くらい年上の女性で、
私にチベット体操(ヨガの5つのポーズを
ベースとした体操と瞑想)
を教えてくれました。

Eさんがくれたチベット体操の本

そして、無償の愛を与えてくれるような
豊かな方でした。
私の中では、守護者のような方です。

そのEさんから37歳の時に、厳しくも、
でも愛のあるメッセージをくれました。

「あなたは、視野が狭すぎる。
 会社の中で出世するとかしないとか、
 本来、そんな小さいことにこだわる人
 ではない。
 あなたはもっと大きなことを成し遂げる人。
 前世では、国レベルでみんなを
 率いるリーダーだったのよ」

この言葉は、
私の人生を変える勇気づけになりました。
私がコーチになることを暗示しているに
違いない
と感じました。

コーチのミッションは
「根本的変容への挑戦」の支援

42歳の時、念願だった会社経営に
携わる機会が訪れました。

2012年、グループの物流センター事業を
統合した子会社(年商700億円)の
取締役執行役員として、
出向することになりました。

経営現場には正解はありません。

社員達と「現実解」を日々模索する過程で、
「本当の自分に戻りたい」
と思うようになりました。

自分のためでなく、
もっと社員やビジョンのために
自分の能力を使いたい。
40代まで順調に学歴や職業キャリアを
積んでこられたような気がします。

ただ、これからも、この延長で
昇進を目指す人生に
違和感を抱いていたのだと思います。

「本当の自分になる」というよりは
「本当の自分に戻りたい」と
 心の声が聞こえた
のです。

  • 人と比べたり、勝つ必要はない。ただ、自分らしく周囲に価値提供していきたい。

  • 人にすごいといわれる必要もない。残りの人生で、純粋に好きなことを追求したい。

  • 毎日、身近な人に感謝したい。妻、娘、両親、妹、コーチ、会社の上司や仲間。

でも、実際には「本当の自分に戻る」ことは、
本当に難しいです。

人間の本能(脳幹)、無意識(大脳辺縁系)には、
「快を求めて、痛みを避ける」という原則
あります。

幼少期からずっと自分の成長を
後押ししてくれた信念価値観は、
本能・無意識にとっては既に快であり、
それらを手放すことは痛みだったのです。

NLPを約20年実践して、
信じていることがあります。
成長・進化には、表面的変化と根本的変容の
二種類があります。

表面的変化は、自分が強みと思うことを
伸ばすことで、快です。

表面的変化のメタファー
「青虫は大きくなるが、
視点は地上に張り付いて狭い」

根本的変容は、自分が弱みと思うことを
克服することで、痛みです。

根本的変容のメタファー
「蝶の視点は、空から眺めて、広い」

人間の信念価値観は、
心理的インパクトと繰り返しにより
形成・強化されます。

信念価値観の正体は、記憶です。
記憶を因数分解すると、

  • 五感情報

  • 言語による意味づけ

  • 感情(究極的には「快」または「痛み」に収束する)

の3つになります。

意識の力で心理的インパクトと繰り返しを
作り出せれば、
記憶を書き換えることが可能です。

そして「弱み」を遡っていくと、
自己否定の記憶にたどり着きます。

自己否定の記憶の

  • 五感情報(主に視覚・聴覚)を変え(イメージを変え)、

  • 意味づけを変え(NLPではリフレームと言います)

  • 感情を変える(「痛み」を「快」に変えるのではなく、ニュートラルにします)。

自己否定の記憶は、
「痛みを避ける」という
本能・無意識の原則により、
無色透明化して心理的盲点の深い場所に
埋まっています。

自己否定の記憶は、
無色透明化して心理的盲点の
深い場所に埋まっている

探し出すことも困難です。

だから、コーチの力が必要なのです。
逆に言うと、独力で本能や無意識に
対抗する必要はありません。

根本的変容を成し遂げるのは、
コーチの力を借りるのが最短最速の道
だと確信しています。

そして、人の意志のエネルギーは、
二つの方向で利用されます。

一つは、創造性の発揮
言い換えれば、ミッションの実現です。

もう一つは、自己防衛
言い換えれば、安全安心要求の確保です。

自己否定を解消していくと、
自己防衛が不要になります。
つまり、自分の中にある意志エネルギーを
どんどん創造性の発揮に
投下できるようになるのです。

根本的変容を遂げることが出来れば、
ミッションに生きる、
本当の自分に戻ることが出来るのです。

私は、Oさんにずっと根本的変容の支援を
していただいていました。

少しずつ自分の体験を遡り、
自己否定の記憶を探す旅をしました。

他人から傷つけられた体験でも、
他人を傷つけた体験でも、
自分を許し、相手を許し、
イメージを変え、意味付けを変え、
感情をニュートラルに変え、
記憶の書き換えを一つずつしてきました。

セッション中に嗚咽することもありました。

あれから5年以上経過し、
「本当の自分」に大分戻れたような
気がしています。

でも、「根本的変容」の旅は、道半ばです。
ラスボスを倒したと思っても、
更に真のラスボス、
更に裏ボスが控えていたことに気づかされます。

今後も本当の自分に戻る旅を続けていきます。
きっと、死ぬまで根本的変容への旅は
続くかもしれません。

そして、同じ志を持つ経営者や
ビジネスリーダーがいたら、
私がコーチとして
根本的変容への旅の伴走をしたい
と思っています。

私がコーチとして根本的変容への旅の伴走を
したいと思っています。

経営者へのあこがれ

私は1993年に総合商社に入社しました。

1990年代は、総合商社がトレーディングから
事業投資に収益基盤を
変え始めたターニングポイントでした。

当時、40代の総合商社出身の経営者が
誕生して話題になりました。

ローソンの新浪社長(当時)や
スマイルズ(スープストックTokyo)の
遠山社長(当時)です。

20代の頃、私はアパレル部門に
所属していました。
ハンガーに掛かった婦人服や紳士服や
子供服のサンプルを担いで
千駄ヶ谷の街を毎日歩いていました。

生地の種類や縫製の技術を覚えて、
価格や納期をすぐに顧客に
提示できることが求められる能力でした。

しかし、30代になって、状況は一変しました。

私は、アパレル部門から小売流通部門に
社内志願制度を利用して
異動しました。

消費者シフトの流れ、
製造から小売へのパワーシフトの流れ、
新浪さんや遠山さんへのあこがれが
あったと思います。

会社からは、
優秀な経営者になれ、優秀なリーダーになれ、
と言うメッセージのシャワーを
浴びるようになりました。

私の視点(RAS)は、経営者、
リーダーに注がれていきました。

「優秀な経営者になりたい」

私の会社人生は、経営者へのあこがれに
染まっていきました。

35歳の時、小売業向けの物流センター運営事業のリーダーをしていました。
当時、私の前任者が首都圏に4つのセンターを
3年間で立ちあげました。
(これはすごいことです)

私が、その事業を引き継いだ時、
各センター赤字であり、
約20億円の累損がありました。

私は、当時MBAで学んだ経営手法と
NLPで学んだリーダーシップや
チームビルディングを実践し、
その後の3年間で累損20奥円を解消しました。

カナダ McGill MBA 
class of 2006の友人達と
米国 Tuck Exective Program 2013

顧客は、センター運営会社のパフォーマンスを
取扱金額高経費率、生産性、
物流品質、事故発生率で評価し、
開示していました。

私の担当期間中に
最下位から2位まで上昇しました。
顧客からも短期間で
どんなマネージメントをしたのか、
成果発表を求められるようになりました。

私は、鼻高々でした。
会社からも高い評価を
いただくことが出来ました。

ピータードラッカーからの問いかけ

年末のある日、
センター長(私が所属する総合商社の子会社の社員)の一人から
こんなことを言われました。

「妻から、年末年始、バイトに行けと
 言われている。
 給料が安くて、生活が苦しいから、
 年末年始も働けと言われた」

センターは、365日、24時間動いているので、
センター長は12月31日も1月1日も
センター業務です。

でも、その前後は、サブセンター長と
役割分担して休みます。
その期間もバイトしろ、と妻に言われたのです。

年末年始はアルバイトの時給も高いからです。

私は、ショックでした。
自分は会社から高い評価を受け、
12月のボーナスもこれまでにない額を
もらっていました。

本当にうぬぼれていました。
勘違いしていました。

4人のセンター長達、その配下のスタッフ達は、
この3年間、私を信じて
着いてきてくれていたのです。

私は、
3年以内に累損解消するという目標を掲げ、
スタッフ達に厳しいタスクを課してきました。

もちろん、私もスタッフ達と同じか、
それ以上に頑張りました。
まさに血と汗と涙の3年間でした。
それなのに、自分の手柄と
思い込んでいたことに気づきました。

スタッフ達へのリスペクトや
感謝の気持ちを欠いていました。

その数日後、私は品川駅から
京浜急行線に乗って帰宅していました。
そして、その電車の中で、
品川駅から京急川崎駅(降車駅)までの区間、
ずっと泣いていました。

目から大粒の涙をポロポロ流し、
鼻水をすすっていました。

当時、通勤時に
経営哲学者ピーター・ドラッガーの本を
読んでいました。

経営哲学者ピーター・ドラッガー
「実践する経営者」

その一節に次のようなものがありました。

第4章 ゼロ成長起業における経営の心得 
  – ゼロ成長を当然としてはならない。

昇進以外に方法によって成果を
上げるための動機づけを
行わなければならない。

この一節を読んだ時、
ドラッガーが私に問いかけているように
感じたのです。

センター長達は、子会社に所属していて、
成果を出しても私が直接給与や賞与を
査定することはできない。

であれば、一番の貢献者である彼らに、
私は何をしてあげられるのだろうか?

私が、自分の意志で視点(RAS)を
自分から他人に向けることが
出来た経験です。

「本当の私」の信念価値観、あんそにメソッド

私は、35歳でNLPと出会ったとき、
いつかコーチになると直感的に
決意していました。

「本当の私」が大事にしてきた信念価値観は
「成長」と「発信」です。

私は、高校生の時、大学生の時と
家庭教師のアルバイトをしていました。

各々、違う生徒でしたが、
二人とも成績が上がり、
勉強に対する姿勢も変わり、
ご両親から深い感謝の言葉と
給与(バイト料)を上げたい、
という申し出をいただきました。

20-30代のとき、
私は累計200人くらいのOB訪問を受けました。
面接の必勝法を学生に伝授していたら、

「あんそにさんにOB訪問は
 絶対したほうが良い」

と毎年口コミで広がっていき、
学生が後を絶たなかったのです。

20人くらいの学生を集めて、
「あんそにメソッド」と
名付けた就活勉強会を毎年開催していました。

2011年7月 就活勉強会 あんそにメソッド

42歳で物流会社の
取締役執行役員になった時は、
部長やセンター長を毎月一回は
全員本社に集め、
午前中は主要業績指標(KPI)の
成果発表会をしていました。

午後は、私の考えた
様々な研修プログラム(リーダーシップ、
マネジメント、管理会計、
コミュニケーション、ファシリテーション、
ロジカルシンキング、等々)を実施しました。

2017年3月 物流会社 
自作研修プログラム 集合写真

商社パーソンは3-4年で異動するのが通例です。
社員教育は、毎年継続して、
成果が出るのは5年後、10年後だと思います。

私は、ライン長(評価者)が研修をするのが
一番効果がある
と考えています。

そして、それが
企業の持続的成長の土台となる
強い組織文化を醸成する
と信じています。

それで、私は自分の信念価値観に従い、
どんなに仕事が忙しくても
研修を社外に委託せず、
自作で実施していました。

人に教えられるだけの専門知識を
自分に身に着けるべく自己投資してきました。

私は、このように幼少の頃から、
物事の本質を探し、
「成長・進化」の手法を紡ぎだし、
再現性のあるメソッドに体系化し、
それを人に「発信」していくことを
無意識にやっていたし、
とにかく好きだったのです。

それが私のプライドでもあり、
私の自己承認でもあり、
アイデンティティーだったのです。

「私は成長進化の手法を紡ぎだし、
 本質を発信していく存在」

私は、NLPの理論と実践から生まれた
自分の成長ストーリーを
再現性のあるメソッドに体系化し、
心技体エクゼクティブコーチ「あんそに」
として発信していきたいのです。

総合商社の仕事も大好きです。
30年続けています。

でも、

自分で商品サービスを作り、
自分でマーケティングし、
自分をブランディングし、
自分でセールスする、

に残りの人生で挑戦したいのです。

それが、私の幼少の頃からの
一貫した生き方であり、
「本当の私に戻る」ことだと思っているのです。

38歳の時、私は
米国ニューヨーク本社に
転勤することになりました。

2008年クリスマス ニューヨーク五番街

当時私の所属していた部署は、
国内商売専門の部署だったので、
異例な人事でした。

きっと、物流センター運営事業で
リーダーとして果たした3年間の実績が
評価されたのだと前向きに理解しています。

私の転勤の送別の品として、
センター長たちが作ってくれたカードです。
当時、カードゲームが流行っていて、
それをオマージュしたものです。

センター長達からもらった
オマージュのカードゲームから2枚

経営者の血と汗と涙の物語・・・メタファーとしてのスイミーの話

私は、約3年の米国勤務を終え、
帰国しました。

そして、
グループの物流センター事業を
統合した子会社(年間売上700億円)の
取締役執行役員として出向することに
なりました。

2012年です。

私の管下には部長やセンター長が
北は釧路(北海道)から西は鳥栖(佐賀)まで
全国各地に合計で20人超配置されていました。

各センター長の管下には、
社員とパートの全国合計で約700人、
業務委託先まで含めると
約2000人のスタッフがいました。

米国転勤前に
一緒に仕事をしていた首都圏4センターの
スタッフ達ともこの会社で再会しました。

2013年から2015年の3年間で、
私の管轄部署は北海道、東北、中京に
これまで倍以上の規模のセンターを
稼働させました。

顧客が全国に店舗を拡大していたので、
それを支える物流インフラも
拡大させる必要がありました。

物流センターを立ち上げることは、

  • 建築コストとリードタイムの管理、

  • 倉庫管理システム構築、

  • 委託先の確保と契約、

  • 大型物流機器導入とオペレーション設計、

  • 人材確保と育成、

これらを全て18~24か月程度で
平行して行います。

稼働一か月前からは、センターに籠もり、
ジーパン、髭ボーボーで指揮を執っていました。

そして、稼働させたセンターは
赤字と混乱から始まってしまうことが多く、
立て直しに奔走することになります。

月曜・火曜は、早朝4時に起きて、
6時に出社していました。
ビルの清掃員より早く出社し、
自分でロック解除して入室していました。

札幌、郡山、名古屋に毎週出張しました。
郡山、名古屋は、新幹線での移動ですが、
新幹線の中でも終始パソコンをたたき、
乗り物酔いで目と頭が痛くなりました。

加えて、顧客との料金交渉は熾烈を極め、
稼働後も続く3年超に及ぶものでした。

2015年8月14日は妻の出産日でした。
計画出産でしたので、
私は立ち合いのため休暇を取得していました。

ただ、前日に顧客から料金交渉で
絶対に来るように言われ、
休暇を返上して交渉に行きました。

突然ですが、皆さんはスイミーをご存じですか? 

今から約45年前、私が小学低学年の時、
教科書に掲載されていました。
そして、現在でも私の8歳の娘の教科書にも
掲載されています。

私は、この厳しい事業環境を乗り切るために、
スイミーの話を社員全員に繰り返しました。

スイミーは小さな魚。
仲間たちがみんな赤い魚だったのに、スイミーだけは真っ黒な小魚だった。

しかし、泳ぎは仲間の誰よりも速かった。
大きな海で暮らしていたスイミーと仲間たちだったが、大きなマグロに仲間を食べられてしまい、泳ぎが得意だったスイミーだけがなんとか助かる。

仲間を失ったスイミーはさまざまな海の生き物たちに出会いながら放浪するうちに、岩の陰に隠れて大きな魚に怯えながら暮らす仲間そっくりの赤い魚たちを見つける。

スイミーは一緒に泳ごうと誘うのだが、大きなマグロたちが怖いからと小魚たちは出てこない。

そこでスイミーは、大きなマグロたちに食べられることなく自由に海を泳げるように、みんなで集まって大きな魚のふりをして泳ぐことを提案する。

そしてスイミーは自分だけが黒い魚なので、
自分が目になることを決意するのだった。

かくして赤い魚たちは大きなマグロたちを追い払い、海をすいすい泳げるようになったのであった。

スイミーあらすじ

私は、メタファーとして
全員で大きな魚のふりをして、
隊形を崩さず泳げるようになりたいと
繰り返し申し上げました。

MBAでどの授業でもテーマとして掲げられた
「アラインメント」
「競争優位性確立のための
 ケーパビリティ―の先鋭化」

メタファーです。

そのうち、一人のセンター長が
スイミーの絵本をセンターに置くようになり、
次第に全センターにスイミーが
置かれるようになりました。

エクゼクティブコーチに拘る理由

私が、2017年3月に物流会社を
退任するときに管下の職員達全員が
寄せ書きの代わりに
スイミーの全ページにメッセージを
書いてくださいました。

スイミー一冊では書ききれず、
二冊になりました。

スイミーの寄せ書き

この物流センターの経営経験を経て、
2017年6月からIT会社の社長を
するわけですが、
その会社は2019年3月に
無事に清算することが出来ました。

私は、2018年6月に10人の社員と
約20人の派遣プログラマーに
この会社を2019年3月に清算する
と説明しました。

それからの10か月間も
血と汗と涙の物語でした。

今回は、全国の顧客60社を訪問し、
今後の事業継承先様との連携のはなし、
清算までの経緯を説明しました。

当社のシステムは物流管理や
決済管理のシステムだったので、
顧客にも事業継承先様にも
本当に迷惑を掛けました。

社員の再就職の支援もできる限り対応しました。
(全員無事に就職先が決まりました)

会社を清算する一か月前まで、
改元対応(平成から令和の改元に伴う
システムアップデート)を
していました。

その時は、社長、管理部長、営業部長、
開発部長を全て一人で兼務していました。

この間、妻にも多大なる協力をもらいました。
幼稚園だった娘の育児を全て妻に託しました。

実は、私は18年6月に
会社清算の説明をしたときに、
皆さんが許してくれるなら
2019年4月に解散会をしたい
と伝えていました。

社員や派遣プログラマーのみんなを労いたかったのです。

でも、最後の最後まで改元対応の納品で、
社員にも派遣プログラマーにも
過度な残業を強いて、本当に心が痛みました。

「こんな私が、解散会をしたいといっても誰も来てくれまい」

だから、解散会の話は自分から
出来なかったのです。

すると、社員や派遣プログラマーから
3月31日が近づいたある日、

「社長、解散会の日程、早く教えてください。
 連絡取りあえるようにみんなで
 連絡先交換しましょう」
「みんな、社長が忙しくて、
 解散会のこと忘れちゃったんじゃないかって
 言ってますよ」

と言ってもらえたのです。

そして、4月に解散会が行われました。
そこで私は涙を流しました。
会の最後に、みんな一言づつ、
思い出や感謝を述べる場を作ったのですが、
社員のMさんが私にこんなことを
言ってくれました。

Mさんは、30代後半で、
仕事に対する責任感はすごく強いものの、
決して段取りは良いほうではなく、
残業が三六協定を毎月違反していました。

そして、社長の私が自ら、
毎日朝9時と18時に
15分ミーティングをして
彼のすべき業務と出来高と
明日の予定を確認していました。

「社長に聞いてもいつも否定するけど、
 この会社を清算することは、前社長の時に、
 親会社の方針で決まっていたと思います。
 社長は、その厳しいミッションを敢えて
 引き受けてくれたと思っています。
 社長がこの会社のために、
 社員のためにやってくれたことは、
 決して忘れません。
 ありがとうございました。」

少し頼りなかったMさんが、
ずっと私を見ていてくれた。

そして理解してくれた、と感じた時、
涙が流れてきたのです。

会社を2018年3月31日に清算してから、
4月末まで秘書と二人で誰もいない事務所で
残務整理をしていました。

この秘書の方は、派遣社員でしたが、
実は派遣会社からは2018年6月に
契約解除を申し入れられました。

理由は、
「本当に派遣料を支払ってくれるか不安」
とのことでした。

毎月、前払いで派遣料を払う交渉をして
最後まで残っていただくことが出来ました。

ただ、この秘書の方も、派遣元に対し、
最後まで勤務したいと主張してくれました。

感謝の思いを伝えたくて、4月のある日、
丸の内の豪華なイタリアンランチを
ご馳走しました。

その席で、デジャブを見ました。

イタリアンランチの席で、
デジャブを見ました。

秘書の方が私にこう言ったのです。

「社長をそばでずっと見てきました。
 苦しい時も一切弱音を吐かずに、
 ただ、やるべきことをやろう、
 という意志を感じていました。
 社長は、今の総合商社で収まる人では
 ないような気がします。
 会社で偉くなるのかもしれませんが、
 もっと大きなことを成し遂げる人
 のような気がします。」

私は、37歳の時にEさんから
もらったメッセージを思い出しました。

私は、30代で経営者にあこがれを持ち、
40代は物流会社とIT会社で
血と汗と涙の経営経験を積みました。

社長の背負っている重責を理解しています。

だから、もし私がコーチになるなら、
経営者やビジネスリーダーを
支援するエクゼクティブコーチに
なりたいのです。

顧客、社員、株主、金融機関、
仕入先、ステークホルダーに対し、
日々重責を果たしている
エクゼクティブの支援をしたい
のです。

心技体コンセプトの完成

みなさん、韓国俳優の
イ・ビョンホンさんをご存じですか?

私は、イさんと同じ歳です(1970年生まれ)。
『G.I.ジョー バック2リベンジ』(2013年)を
見た時に、

同じアジア人で、同じ歳で、
こんな肉体美が実現可能なのか
と勇気をもらいました。

『G.I.ジョー バック2リベンジ』(2013年)

私は、心の声に従い、メンヘラ回避目的で、
2018年4月からパーソナルトレーナーをつけて、
ボディメイクを初めました。

2018年4月の身体 181cm 68kg 体脂肪率16%

最初の2年は、フォームも未熟で、
腰を痛めたり、腕を痛めたり、
肩を痛めたり、脚を痛めたり、
怪我続きで苦しみました。

始めて一か月後にトレーナーから
コンテストの予選に出ようと
提案をいただきました。

自分の弛んだ身体、予選とは言え、
舞台に立てる自信はなく、
断固拒否しました。

ただ、トレーナーの言葉が頭から
消えませんでした。
そして心の声が聞こえてきました。

「自分は、仕事の重圧でメンタルがボロボロだ。
 自分の考えと真逆なことをしなければ、
 この地獄から抜け出せないのではないか?
「逆張りの発想」が、正解ではないか?」

コンテスト予選出場を決心し、
減量を始めました。
3か月で体脂肪率が4%台になりました。

当時筋肉はありませんでしたが、
筋繊維がキレッキレの自分の身体を見て

「何歳からでも人は変われるんだ」

と衝撃を受けました。

ボディメイクをしたことのある方なら
わかると思いますが、
4%まで減量した後に、
増量するとインシュリン感受性が
爆上がりしているので、
初心者ボーナスも相まって、
コンテスト後の3か月で
筋肉量が7kg増加しました。

別人の身体になりました。

スクワットで限界まで追い込めた時、
目の前が真っ白になり、汗が吹き出し、
アドレナリン、成長ホルモン、
エンドルフィン、セロトニンなど
ありとあらゆる幸せホルモンが
溢れて出るような感覚を味わいました。

IT会社の仕事の重圧で心理的に
追い詰められていた私の不安が
ぶっ飛びました。

最初は、仕事の恐怖を打ち消すために、
毎日、ジムに逃げ込んでいる感じでした。

身体の変化と心の変化を目の当たりにして、
ボディメイクにハマりました。

食事・運動・睡眠の徹底管理のもと、
某ボディメイクコンテストでも
2021年から3年連続ファイナリスト
達成しています。

イ・ビョンホンさんの
ポスターを意識したポーズ 
体重70kg 体脂肪率4-5%

この経験を通じて、
自分のコーチのコンセプトが完成しました。
それが「心技体エグゼクティブコーチ」です。

心(脳)と身体(筋肉)は、
神経でつながっています。

ボディメイクの世界では、
「マッスルマインドコネクションが
 筋肥大に大事」

と言う定説があります。

私はこれをNLPの
「心と身体は有機的なシステムである」
という原則とも
深いレベルでつなげることが出来ました。

そして、技を徹底的に追及する過程で、
心と身体も磨かれるのです。
心と身体を磨かなければ、
技も極められないのです。

心技体とは、心、技、身体の
3つのバランスで最大限のパフォーマンスが
発揮できるという「フロー状態」
入ることを指し、
特にスポーツの世界で使われる言葉だと
思います。

わたしは、仕事の重圧に打ち勝つために、
自分にエクゼクティブコーチと
フィジカルコーチの2名をつけました。

心技体を日々鍛えることで、
目の前の事象をありのままに見る、
肯定も否定もせずニュートラルに捉える
そして、
自分が出来ることを淡々とやる、
というフロー状態に入ることが
出来るようになりました。

「平常心・不動心」を
手に入れたと思っています。

両親からもらった一番のギフト

私は、父と母から「規律」と「家族愛」
もらいました。

母は幼少期、本当に厳しい人でした。

幼少期

幼稚園や小学低学年の頃の記憶は、

「押し入れ」
「庭への放り出し」
「ピアノ」

です。

悪いことをすると、
鼻血が出るまで顔をひっぱたかれ、
押し入れに入れられました。

夜に庭に放り出され、
冬でもガタガタ凍えながら、
反省を促されました。

私は5歳から13歳までピアノを習っていました。

家の近くの公園で近所の友達と遊んでいると、
毎日5時に母親が迎えに来ました。

「たっちゃん~、5時だよ。
 ピアノの時間だよ~」
と大声で呼びに来るのです。

母親が迎えに来るのが恥ずかしくて、
嫌で嫌で・・・。

でも5時になっても友達と遊びたくて、
毎日母親に家に連れていかれました。

友達からは、
「男のくせにピアノなんてダッセ~」
 (45年前の時代感ですね)とか
「たっちゃんのママは、教育ママだよなぁ」
とかカラカワレました。

自分のことをカラカワれるのは
耐えられましたが、
自分の親をカラカワれるのは、
本当に悔しかったのを覚えています。

冬もストーブもつけず、
指がかじかんで動かなくても
ピアノ練習を毎日30分しました。

でも、5分くらい弾いていると、
指も温まって普通に弾けるようになりました。

欲しいものをネダッても、
誕生日以外に買ってもらった記憶がありません。

学校の友達は、いろいろおもちゃを
買ってもらっていて、
羨ましい想いをしていましたが、
負けず嫌いだったので、
表には出しませんでした。

友達のスーパーカー消しゴムを
こっそり盗んだこともありました。

夏休みも、近所の友達が
「たっちゃん、あそぼ~」とか家に来ても、

母親が
「今日の分の宿題が終わってないから、
 遊びに行けない。
 終わったら、遊んでね~」
と断っていました。

決められたことは、
嫌なことでも先延ばしにしない、
と言う規律を幼少期に
叩き込まれたと思います。

小学5年生の時に、
親に日能研(中学受験専門の予備校)に
行かせてほしい、
と頼みました。

クラスで天才と呼ばれている
「まさし君」に勝ちたいという理由でした。

まさし君も日能研に通っていたのです。

その時から、今まで親に
勉強しなさい、とか、
〇〇しなさい、とか指示を
受けた記憶はほとんどありません。

幼少期から小学5年生まで「規律」を
叩き込まれていたからでしょう。

勉強もスポーツもすべて自分で決めたことは、
自分で完遂するようになっていました。

大学時代は、競技スキーをやっていたので、
年間100日間山にこもり

合宿費・交通費・道具代で
毎年100万円はつかっていました。

大学時代のスキー

ただし、必要なお金もアルバイトで稼ぎ、
足りない分は親から借りましたが、
就職してから完済しました。

父は、母の教育方針には一切口を
出しませんでした。
とてもやさしい父でした。
母親が厳しかったので、
父は意図的にやさしい役割を
していたそうです。

父はいつも、
母は美人だ、料理が上手い、
と褒めていました。

毎年、大晦日は、家族全員でコタツに入って、
紅白歌合戦を見ていました。

なぜ父はカセットテープで
3時間分録音していました。
それが我が家の習わしでした。

思春期に入って、
そのテープを聴く機会がありました。

小学生だった妹や私のかわいい声と
会話が入っていました。

父や母の生活感溢れる会話も入っていました。

私は、これが家族愛なんだと気づきました。

私は、35歳でNLPに出会ってから、
4年毎に学びなおしをしています。

4年毎に未来日記を書き、
書いた日から100日間
毎日それを読み続けます。

いつの時代の未来日記にも

「本当に欲しいものは、
 ありふれた家族との日常。
 それが家族愛であり私の安らぎ。
 自分はそれを手に入れている」

と書いてあります。

今、毎日8歳の娘とピアノの練習をしています。

残りの人生で成し遂げたいこと

私の朝のルーティンをご紹介します。

6時半起床 グルタミン10g摂取、
未来日記を読む。
チベット体操20分、瞑想5分。

瞑想は、

  • 感謝の瞑想、

  • リフレーム(肯定的意図)の瞑想、

  • ビジョンの瞑想

です。

感謝の瞑想は、
妻、娘、両親、妹、コーチ、会社の方々
の順です。

リフレーム、肯定的意図の瞑想とは、
自分が昨日苛々したことや
嫌なことがあった際に、その良い面を探す、
というものです。

面白いもので、
リフレームの瞑想をすると
心がとても晴れるので、
苛々したことがないとネタ切れを恐れて、
探してしまうくらいです。

でも、最近はほとんどネタがありません。

ビジョンの瞑想は、
未来日記の1シーンを五感を使って
ビジュアライゼーションすることです。

そして、通勤時に10分間、
日光を浴びて歩きます。
セロトニンが分泌されます。

夜のルーテインは、
娘とのピアノの練習、
本の読み聞かせ、
そして
筋トレ(3日やって1日休みの繰り返し)です。

心技体エクゼクティブコーチとして
大事にしていることは、
思考習慣と行動習慣を
自分の意志でコントロール
し、
維持することです。

経営者に大事なことは、
ドーパミン、セロトニン、
オキシトシン、エンドルフィン、
テストステロン、成長ホルモン、等の
バランスをとり、且つ分泌を促すことです。

これらは「幸福ホルモン」です。
意志力を上げることが出来ます。

そして

経営者の意志力は、組織に伝播します。
強い組織文化を作り、PDCAの質を上げます。

もう一つ大事なことは、
バランスホイール
という考え方です。

バランスホイールをつくる目的は
『理想のライフバランス』と
『現状のライフバランス』の
ギャップを認識し、
改善することにあります。

バランスホイールの代表的な作り方とは、
・家族
・健康
・人間関係
・仕事
・キャリア
・お金
・ファイナンス
・環境
・時間
・精神
・マインド
等です。
(特に数や項目に決まりはありません)

40代の時、
私は「今が仕事の勝負時だから」
自分に言い訳し、
家族を犠牲にしました。

「仕事や付き合いが忙しいから」
言い訳し、
運動習慣からも逃げ続けました。

経営者が真の幸せを手に入れるためには、
ライフバランスが大事です。

社員や家族を幸せにするために、
経営者自身がライフバランスを
整える責任があると考えています。

人間には、バランスホイールの項目の数だけ
アイデンティティーやミッションがあります。

経営者として、世の中や未来に
貢献するようなミションをもちつつ、

父(母)として夫(妻)として、
家族愛や安らぎをミッションとする
ケースもあるのです。

私は、心技体エクゼクティブコーチとして、
クライアントの思考習慣、行動習慣、
ライフバランスを
一緒に作り上げていきたいと考えています。

クライアントの思考習慣、
行動習慣、ライフバランスを
一緒に作り上げていきたい。

私のミッションは、
「クライアント心技体のバランスを保ち、
 本当の幸せに気づく」
です。

私のビジョンは、
「経営者を元気にして、
 日本の経済発展に貢献する」
です。

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2024年6月 
心技体エクゼクティブコーチ あんそに


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