【短編】痛い

 昨日、弟が転んで怪我をした。それはそれは大きな声で泣き叫んで、とても痛そうにしていた。
 擦りむいた膝小僧には、抉れた皮膚が赤に染まっていた。
 七つも離れた私の弟。可哀想なその姿を見て、私は彼の痛みを肩代わりしてあげたいと思った。
 だから私は祈ってみた。
 「どうか、彼の痛みを私が代わってあげられますように」
 瞬間、さっきまで泣いていた弟が突然泣き止んだ。あやす母に弟は「もう大丈夫」と、微笑んだ。
母の方は感情の余りの急ハンドルに困惑した様子だった。
 私はというと、弟が泣き止んだその時から、急に右膝に痛みを覚えた。それは関節が痛いだとか、そういった類のものではなく、明らか何か皮膚を擦った様な刺す痛みだった。けれど、膝を見ようと血が出ていないどころか、全く傷などついていない。
 私は本当に願いがかなったことに驚くとともに興奮した。
 これまで幾度となく、私は痛みに耐えてきた。たくさんの傷跡が体の内と外には刻まれている。
 そんな傷だらけの、痛みなんて慣れた私。その他持っているものなんてなにもない私。
 それが今、誰かの痛みを私の痛みにできることに、深く感動せざるを得なかった。ようやく私にできることが見つかった。誰かの役に立つことができるようになった。
 今朝は母の痛みを肩代わりした。
 包丁で切った指、彼女の痛みを私はもらった。人差し指の腹のあたりが破れたようにピリッと痛かった。
 父が小指をぶつけた痛みももらった。右足の小指が深く鈍く痛んだ。
 二人共痛みが消えて不思議そうだったけど喜んだようにも見えた。それがとても嬉しかった。
 「と、いうことで、ここらへんで授業を終わります」
 窓外、流れる雲の形を何も考えずに流し見て、今朝までの出来事をおもいうかべていたら、いつの間にか授業が終わった。
 お昼時、皆机を合わせ始める。何人かは授業が終わるやいなや教室を飛び出して、購買へと駆けていった。
 私はナフキンに包まれた弁当箱をカバンから取り出し、独りご飯を食べる。いつもの事で、少し騒がしい教室で独り静かに咀嚼を重ねる。
 と、隅で誰かが笑っているのが聞こえた。明らかに何かをバカにした鼻に抜ける笑い声が束になって私の耳に届いた。目だけで見渡すと、私ともう一人、別の独りでご飯を食べている子が後ろ指を指されて、肩身狭くとても悲しそうに背中を丸めていた。長い髪の奥、隠れた顔でも泣いているように見えた。私はそれが許せなかったた。
 だから私は彼女の心の痛みをもらおうと、また祈りを捧げた。
 すぐのことだった。
 私の胸がいきなり締め付けられた。扁桃腺が少しばかり大きくなって喉がつまり、呼吸も浅くなった。一気に感情がマイナスに動いたのが自分でもわかるほど、中がずしりと重く感じた。
 彼女はというと、平然とご飯を口に運んでいた。
 上手くいったようで良かった。
 私は、今にも泣きそうになっている体の中に少しの喜びが芽生えた。
 夕方、オレンジに染まりかけの世界をひた歩いて帰路についた。道中、痛そうな人に目を留めては痛みをもらった。
 これまで負の象徴だったた痛みは、私の中で正の感情へと移り変わりそうだった。誰かの痛みをもらうことに、何処か生きがいめいたものを感じた。
 家に帰ってテレビをつけると、丁度夕方のニュースが流れた。画面に映し出されたのは、どこかの国の戦争風景だった。飛び交う銃声と爆発音。舞う砂埃と硝煙。コンクリートの壁にこびりつく濁った血。荒廃した世界。
 どこか遠くの話。私にとってはほとんどファンタジーに近い。でもそこで闘う人たちに、私は思った。
 彼らの全ての痛みを貰いたいと。
 だから祈った。
 「ここに住む方々の痛みを、私がもらえますように」 
 もう言葉を言ってすぐだった。
 全身が意識が飛びそうなほどに痛くなった。右手は重いもので潰されたように、右足は内部で爆発したように、頭は押さえていないとどうにもならないほど痛んだ。
 心もずぅーっと落ち込んだ。どころか生に対する諦念や死に対する恐怖が奥底から湧き出てきて、ぐちゃぐちゃになった。
 私にはそれがとても嬉しかった。
 誰かの痛みをもらえるこの力。
 私はまた、誰かの痛みをもらおうと思った。
 
 

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