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過去を脱皮し新しい物語をいきる

長年矛盾に感じてきたことがある。
過去にとらわれるな
過去から目をそらすな。

これはどちらも真実だと感じる。

ちょっと嫌だなと感じる家庭環境で育った私。
親にほめられたくて必死に頑張ってきた私。
親に褒められることをしたくて、仕事も友人も選んできた私。
親に認められない人との間に赤ちゃんを授かり、その事実が受け入れられず
どちらも放棄した私。

激しい反抗期を通過して、けんか別れして家を出て社会人になり、
とても楽しい20代を過ごし、なんとなく余裕ができてまた家族と関係をもつようになり、イライラし。
実家に帰るのが憂鬱でしかたなくて。
でもそれが普通だと思っていたら、今の夫さんに出会い
家族は思いやりあって助け合って生きている人たちを見て
実家に帰るのは嫌なことではない人がいる衝撃の事実。

それを受け入れられなかった。
マンモーニ、マザコン、自立したほうがいいんじゃない?
親と仲良しなんて、家族と仲良しなんて逆に問題なんじゃない?

私は、DV加害者だった。
これは、最近出会った女性加害者のための自助グループCo3(シーオースリー)代表・さりたもさんの記事で気づかせてもらったことだ。

まさに。。。
理解のある夫さんとメンヘラなわたし。。。。(ううう)

ただ、私たちメンヘラは基本的に「誰かが犠牲になることで、誰かが幸せになる」という構造の社会で「犠牲」になることを強いられてきた生き物です。

だから、私たちが幸せになろうと思うとき、そこには常に「誰を犠牲にするか」という思想が見え隠れします。

そうして犠牲になるのは、私たちを全て理解してくれるパートナー、もしくは子供。

「生理中はイライラしてしまうけど、仕方ない」
「産後はイライラするけど、仕方ない」
「育児をしているとイライラするけど、仕方ない」

そんな「仕方ない」をいくつも重ねて、DVを続ける私たち。そして、優しさからDVに耐えてくれるパートナーたち。

でも、理解のある彼君を犠牲にした私たちの「幸せ」は、いつか破綻します。破綻しないならそれは、あなたがかつて受けた苦しみを、同じように再生産しているだけかもしれません。それって本当に、「幸せ」なのだろうか、と私は思うのです。

だから私たちメンヘラは、人生のどこかのタイミングで必ず「誰も犠牲にせず、自分も幸せになるための方法」を学ばねばならないのだと私は考えています。

女性加害者のための自助グループCo3(シーオースリー)代表・さりたもさんの記事

重いも軽いもない。

たった一言。(いや、何回も)
冗談で。
別に意味もなく。
言い訳はどれだけでも出てくる。

それはいじめっ子のソレで。

その事実に気づいたとき、
あ、コレ私目をそらしたくない。
私のハートがちゃんと受け入れたがっている。
そして、夫さんと愛の関係を築きたいと思っている。
そして、もし可能なら、そのほかの人たちとも。
ヒトだけじゃない。
生きとし生けるみんなみんなと。
愛の関係を築きたいと思ってる。

愛の定義が狂っていたから、そこからだけども。
愛ってなに?
一人一人ちがう人と程よい距離間で関係を築く。
わからないけれど、まずはこれかなと。

これこそが、私が生まれてきてやりたかったことなのかも。

色んな方々のお陰で、ここまでこれた。

両親がちょっとイヤでよかった。
兄弟とあんまりわかりあえなくてよかった
ほんとうにわかりあえる感覚はこれかと感じられるから。
これこそが二元論の良きところ。
だれもワルモノにしない
わたしもワルモノにしない
ただ傷つけた傷ついた事実をみるだけだ。

マータさんのYouTubeやブログに出会ってから
新月、満月のお家でできる火の儀式をしている。




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