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わたしたちの共通言語って


様々な意見があり、様々なことに興味がある人、ない人がいる。
多様性、について考えてみることをきっかけとした文章。

捉える人によって様々なニュアンスを含む多様性


この多様性、という言葉は、捉えるひとによって様々な意味合いを含むものになってしまっているように思う。もっというと、そういうふうに共通言語を人と人の間で持てなくなってきているときに、社会のさまざまな問題は発生していくし、静かに見えないところ、つまり人々の心のなかで負担が大きくなっていってしまうものだなあ、なんてことを思う。言葉、そもそも言葉はなにかを共有するためのツールだから、本来の意味、それがどういう脈絡で、誰がどういう意図でつかっているものなのかがわからなければ、理解をすることは、難しいんじゃないか。

同じ と、 違う

さておき、わたしの思う多様性について書いていく。
人はもともと多様なのだと思う。だってまず両親が違い、流れている血に組み込まれているDNAが違い、この世界の様々なところで生まれ、文化や言語が違う。でも、同じこともある。感情をもち、傷ついたり喜んだりする。同じ人間なのだ。この、同じ、と違う、を考えていくことはとても大切なことなのではないかと書きながら思った。

同じようなところがある。殴られれば痛いし、悪意をもって接されれば、嫌な思いをする。それはいちぶ、救いのようなものでもあると思っている。
エンパシーとシンパシーという言葉がある。エンパシーは自分とは違う人間が、どう感じるかを想像していくことになる。これは、なかなか高度なことだな、と感じる。

まず、人が自分と違う感覚をもつということを体感で知っている必要がある。それは人と人が生身で接さないと得られない能力なのではないかとわたしは思う。しかもそれを行うのは、安心な社会と健全なコミュニケーションが前提だ。幼い頃から、芸術や、物語に触れることは、エンパシーを養うことに寄与することもあるのだろう。

健全なもの


最近、「健全な」ということをぼんやりと考える。やなせたかし、アンパンマンの作者が、エロ、グロ、ナンセンスなしで、つまり刺激で人の注意を惹くのではない方法で、ひとを感動させたりする、ということについて話していた本を読んだことがある。

芸術の類にロングセラー、ということがあるとすれば、そういった普遍の、人間に刺さるものなのではないだろうか。そしてそれは、現代で、日常を送るうえで多くの人が失いかけることもあるものだと思う。

多様性


長々と書いてしまったが、意見を持てること、そしてそれが健全であること。それは健全なコミュニケーションによって、育まれること。そして多様な意見が必要だということ。それを聞くだけ土壌が必要だということ。

それは、人は必ず間違うからだ。
話し合うこと、変わっていくことによって、人類の生命はその形を保っていけるのではないか。


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