にわかファンの憂鬱(「ファン」、「推し」。基準はどこにあるのだろう?)

私はHonda FC箱推しのにわかファンである。……と、言葉にするのは簡単だが、実はこの言葉を記すまでにもいくばくかの葛藤がある。
発信行為(思うこととかを綴っているだけとも言う)をしているにもかかわらず、「にわか」などと冠をつけているのもその一つだ。

前置きはよして、さっくりと言おう。私は時折、「ファン」を名乗って良いのかわからなくなる。
私にはHonda FC以外にも好きなものはあるし、好きな人物、キャラクターだって居る。だが、Honda FC以外にはちょっとそれらの言葉を使うことをためらいたくなる。「ファン」、「推し」を宣言できるほどの熱量を持ち合わせていない気がするからだ。

私の肌感覚でしかないと明記するが、なにかに対して「ファン」、「推し」を宣言するには、相応の熱量が必要だと思っている。
それは例えばアーティストなら「シングルすべてを所有している」とか、「どこでライブがあっても必ず駆けつける」とか、「出たグッズは絶対逃さない」とか。ある意味マニアでもない限り取り組まないようなレベルを指すのではないか――と勝手に思ってしまっているきらいがある。別にファンの資格試験が存在するわけでもないのに、だ。

だが、なんとなく原因はわかっている。私のコンテンツ摂取の大半が、受動喫煙(たまたま流れてきたものを拾う)やつまみ食いになっているからだ。
自分の範囲内に流れてきたものをつまみ上げるだけ。そんなコンテンツの浸かり方では、「好き」を宣言するのはおこがましい。おそらく真っ当で真面目でもあるその考え方が、私の宣言を阻んでいるのだろう。

無論、深掘りするのであれば自己肯定感の欠如とか、そういう心理的な面にも至るのであろう。自分の「好き」を肯定できない、自信がない。そういう観点でも物が言えるからだ。そして自己肯定感の欠如を言われても、私は首を縦に振ることができる。そのくらい、自信のなさには自信がある。

ただ。Honda FCに関してだけは「好きだ」、「ファンだ」と言わせてもらいたい。年季的にはまだまだ若輩な上、すべての試合に行けるわけでもないから「にわか」だが、それでもこうして思いの丈を綴っているのだ。ファンと名乗れなかったら、ただの物好きになってしまう。それは嫌だと、心から思っている。

結局ツラツラと自分語りをしてしまったが、結局のところ世において「ファン」や「推し」に明確な基準というものは存在しない。
仮に基準があるとすれば、それは「自分の心一つ」なのだろうと思う。
そんなありきたりの結論に至る朝でした。お粗末。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?