皿洗いさえ出来ない、ヒモ生活 【ADHDは荒野を目指す】
3-4.
行き場をなくした僕は、東北の街に住む女性の部屋に転がり込みます。
二つ年上の彼女が、朝起きると布団を畳み朝食を作り洗濯をし仕事に行 く。彼女が帰宅後食事を作り掃除をし風呂を入れ布団を敷く。
僕がしなければならないのは、皿洗いだけ。
彼女は一切を僕に要求せず、いてくれるだけで嬉しいと繰り返しますのです。
そんな、ヒモとしか言いようのない生活が始まりました。
僕にとってそれは、まさしく天国にいるような日々でした。
大学卒業後――いや、物心ついてこのかた、家でも学校でも会社でも、ひたすらに不要な人間として扱われていた僕が、この上なく大事にされるのです――ただ皿洗いをするだけで。
心が満たされます。
ただ、彼女が仕事に出た後は、皿洗いを終えるともうすることがない。
スマートフォンもない時代だし、ゲーム機も持ってきてはいない。勿論勉強はしないし、小説だって書けない。
遊びに行こうにも、現地には彼女の他に知り合いの一人もいない。体質的に酒も飲めないし、パチンコなんて大音量で頭がやられてしまうだけ。行きたい場所はどこにもありません。
彼女が出かけると、横になってテレビを見、適当な本を読みます。やがてそれに飽きると、散歩に出かけます。
彼女の部屋の近くに、二百メートルほど続く真っすぐな道がありました。ゴミの一つも落ちておらず、街路樹がきれいに並び、その間からは広く澄んだ空、そして良い形の山々が見えます。
その道が気に入った僕は、好んでそこを歩きました。これまでのこと、これからのこと、様々なことを考えながら、僕はそこをただ歩き続けました。
そうして、穏やかに日々が過ぎました。
けれども、そんな良い時間が長く続く筈がありません。
新しい街での、新しい彼女との日々。それは勿論刺激的な物である筈なのに、飽きっぽいADHDである僕には、あっという間にそんな時期が終わってしまうのです。
僕は、苛々し始めます。
平日昼間ずっと一人きりで居られるとはいえ、他人の部屋ですから、気ままには振舞えません。着替えやゴミをほったらかしには出来ないし、大騒ぎも出来ない。
しかも悪いことに、そこはレディースマンション。本来男性立ち入り禁止の場所。勿論あってないような規約ではありますが、出入りにもある程度は気を遣わなければならない。
さらに、平日夜や休日は、狭い部屋で二人顔を突き合わせて過ごします。彼女は、少しでも僕の役に立とうと、僕の些細な言動にも反応し、対応してくれる――それが、まるで監視されているように感じられてしまう。
狭い部屋での同居生活。
些細なことまで気になり過ぎて、中々安らぐことが出来ない。そんなADHDにとって、それはかなり厳しい環境でした。
でも僕は、我慢をしようと思いました。
彼女は、居場所のない無職の男を受け入れてくれて、優しくしてくれた、そんな聖母のような人です。
それにそもそも、僕には他に居場所がないのです。
ただ皿を洗っているだけで、気楽に生きて行けるのです。
我慢をする以外の選択肢なんて、ある筈がありません。
――けれども。
我慢なんて、できる筈もありませんでした。
考えの浅い僕には、我慢をすることで、その先に得られるものを考えることなど出来ません。
我慢をすることの不快さ、そこにしか意識が向かないのです。
やがて僕は、ひどく愚かな振る舞いを始めます。
詰まらないことで怒り出す。一旦怒り出すと、相手が謝るまで僕は追及を続ける。彼女はすぐに謝る。けれどもそれが気に入らず、また別のことで怒り出す。
そして家を飛び出す。真夜中まで通りを歩き続けた後、眠たくなって帰宅する。笑顔で待ってくれている彼女を無視して、僕は背中を向けて眠る。
翌日、朝食を作り笑顔で出て行った彼女を見て、少し反省して皿洗いをする。
でも、夜にはまた苛々が蘇る――彼女にささいなことで怒り、そして家を飛び出す。
そんなことを、繰り返します。
――それでも。
そんな我慢がきかない僕を、彼女はいつでも許してくれていました。
やがて僕は、反省と共に思います。やはり僕は我慢をしなければならない、と。
彼女の優しさに応えなければならない、と。
そして、さらに考えを膨らませます。
僕が仕事をすれば良いのだ、と。
国家公務員になるとか小説家になるとか言っておいて、結局実際にやっているのは、皿洗いだけ。
ここでアルバイトをしたり、それこそ就職をしたりすればいい。それで経済的な余裕を得て、より広い部屋に引っ越すことが出来たら、今の苛々も解消できて、より心地よく過ごすことも出来るようになるに違いない。
今は確かに苦しいが、そうやって状況を改善して行けばいいのだ、と。
でも僕は、そんな考えを簡単に捨て去りました。
理由は簡単です――僕は、彼女が好きでも何でもなかったから。
居場所を提供してくれて、失職した辛さを癒してくれて、性欲まで満たしてくれる――そんな便利な存在である彼女を、僕はただ利用していただけです。
勿論そこで得られた満足は、とても有難いものではありましたが――そこに安住出来ないのがADHDです。
少しでも満足すると、すぐに飽きて、次の世界を求めてしまうのが、ADHDです。
そこに愛だの恋だのがあれば、また話は別だったのかもしれませんが――幼い僕に、自分自身のことを考えるので精いっぱいの僕に、他人に対してそんな感情を持つ余裕なんて、ある筈がありません。
彼女の為に何かをする、という考えを、僕は一切抱くことが出来ませんでした。
ただ自分の為に、別の世界に行きたいとしか思えませんでした。
そして、ある日。
彼女が仕事に出かけた隙に、僕は大急ぎで荷物をまとめ、その部屋から出て行くのです。
その日の朝食の後の、皿洗いもせずに。
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