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武漢の中島みゆきに泣く 【ADHDは荒野を目指す】

 2-6.

 成都での観光は、さほど面白いものではありませんでした。
 ガイドブックに紹介されている歴史的な建物は沢山ありましたが、それらを見て回っても全く楽しめません。僕が好きなのは楽しい歴史小説であり、無機質な遺跡や武将像などではない。それでも、折角ここまで来たのだからと観光を続けましたが、結局疲れがたまっただけでした。

 飛行機でチベットに向かうという平田に別れを告げ、僕はバスに乗り、東方の街、重慶へと向かいました。
 重慶には観光に来た訳ではありません。そこから何日もかけて揚子江を下る船に乗る為です。
 折しも、「三峡ダム」なるものの建設が始まろうとしている時でした。それが完成すると、揚子江沿岸の多くの地域が水没してしまう。多くの絶景や貴重な遺物が、永遠に失われてしまうのです。だからその前に川下りをするべきだ。――ガイドブックにお勧めされた通りに、僕はその船を目指したのです。

 僕が乗り込んだのは、八畳ほどの船室が十ほどある、所謂中型船でした。そんな大きな船が下ることの出来るほど、大きな川がある。そのスケールの大きさに感心しながら、僕は船に乗り込んだのですが、そこで愕然としました。

 八畳ほどの空間に二段ベッドが四つ押し込まれた狭い船室や、そこで同室の中国人達が常に大騒ぎする――早朝から大声で話し合う、酷い時は夜中にカラオケが始まる、それらはある程度覚悟していたことです。勿論不愉快でなりませんが、耐えられないことでもない。
 長時間滞在する公共交通機関であるにしては、思ったより清潔であることには多少驚きましたが、その理由はすぐに判明しました――プラスチックであれ生ものであれ何であれ、出たゴミは全て、即座に川に投げ捨てているから。

 その船で僕が最も驚いたのは、甲板の有様です。折角観光船に乗り込んだのです、両岸の風景を見ようと船室から出たところで、僕はギョッとしました――甲板のそこらじゅうに、人が倒れているのです。

 勿論、本当の意味で倒れている訳ではありません。彼らはそこで寝ているのです――そこが彼らの船室なのです。
 彼らは上海を目指す労働者達でした。飛行機はおろか、列車に乗る金もない彼らは、最も安価な移動手段を用いて――船の甲板に寝転がって、上海まで行こうとしているところだったのです。
 まさしく立錐の余地もないその甲板では、とても落ち着いて風景を眺めていることは出来ません。かといって船室に戻れば、同室の連中が大騒ぎしている。
 体を自由に動かせる分、長距離列車よりは多少マシではありましたが、それでもその船旅は退屈で、辛いものでした。

 そうしてひたすら退屈に苦しんでいた僕ですが、三日目あたりからひどく焦り始めました。
 まるで順調ではないからです。チケットを買った時の話では、そろそろ武漢という街に到着している筈なのに、まだその半ばぐらいしか進んでいないのです。いつ次の街に着くか船員に尋ねても、まともな答えは返って来ない。
 このままでは、上海から日本に戻るための船に、遅れてしまう。

 それは悪夢のような事態です。上海日本間の国際船の定期便は週一回しかない。既にチケットを持つその便に遅れれば、一週間滞在を伸ばして次の船を待つか、或いは飛行機で日本に戻るしかない。
 でも、言うまでもなく、僕にはお金がありません。一週間滞在を伸ばすためのお金も、勿論飛行機代も。そして、そんな事態になればどうすれば良いのか、という知識もアイデアない。

 何か重大な気がかりがあると、そのことにばかり意識が向いてしまい、酷い時にはパニックに陥ってしまう。思考面の多動性からくる、ADHDの特質の一つだそうです。
 そのせいで、少年時代の僕は死を思い続けましたし、社会への恐怖心をも強く持ちました。
 けれども、見事に受験に成功したことから、僕は逆に無暗な自信を持つに至ったようです。自分なら何かが出来るに違いない、そう信じられるようになったのです。その挙句、こうして一人で中国に出たりもしたのですが――やはり、その特質はまだまだ抜けきっていません。
 その船の中で、僕は不安に胸が押しつぶされそうになります。何度も時計を見て、外を見て、ガイドブックを見て、考えて、妄想して、時計を見て。
 そんな具合に、思考が多動に陥った僕の心と裏腹に、人々をぎゅうぎゅうに押し込んだその船はゆっくりゆっくり川を下って行くのでした。


 予定より三日遅れて、その船は武漢という街に到着しました。
 後年ウィルスの発生地として世界中に有名になる土地ですが、この当時は、黄鶴楼など歴史遺物が人々を惹きつける街でした。

 けれども僕は、そんな物に目をくれている余裕はありません。船を下りるや否や、バスに飛び乗り、武漢駅へと急ぎます。
 しかし、切符売り場の前に素晴らしく長い行列が出来ているのを見た僕は、呻き声を上げます。これではどれだけ時間がかかるか分からない。上海や西安にて列車の切符を購入しましたが、その際も、行列の中で一時間以上耐えたものです。行列の長さから言って、今回はそれ以上の時間がかかるかも知れない。
 これではまずい、そう思った僕は、近くにあった国営の旅行代理店に駆け込みました。無論手数料はかかりますが、こちらの方が手早く切符は手配できる。僕は大急ぎで上海行きのチケットを要求しました。けれども、代理店の男性は言うのです――三日後まで空席はない、と。
 上海からの船は、明後日出港するのです。今晩の列車に乗ってですら、間に合うかどうか少し怪しいレベル。三日待てるはずもありません。
 僕は愕然としますが、すぐに気を取り直して、高速バスのチケットを求めますが、それも拒絶されます――一週間後まで空席はない、と。
 折しも、上海と言う街が急速な発展を始めた時期です。中国じゅうの人々が、上海を目指し始めた時代なのです。
 僕は茫然とします。もう無理だ、もうこれで日本に戻れなくなった。

 けれども、そんな僕に、代理店の男性は言いました。明日の上海行きの飛行機なら、十分空席はあるぞ、と。
 飛行機。僕は驚きます。それまでの人生で、僕は一度も飛行機に乗ったことはありませんでした。高価なもの、そういうイメージしかありません。
 けれども、その上海行きフライトの値段を恐る恐る尋ねてみたところ、ほぼ手持ちのお金全てと同額です――つまり、ギリギリ買えます。
 悩んでいる余裕はありませんでした。日本行きの船便は、明後日出港するのです。それを逃すと終わり。
 僕は急いでそれを購入しました。

 そして僕は、武漢駅の片隅に腰かけました。
 大きな駅です。二十四時間人が出入りしている上に、トイレも明かりもあり、さらには翌日の電車待ちらしき、大きな荷物を持った大勢の人がいる。宿に泊まるお金もない僕にとって、夜を明かすのにそれ以上適した場所はありません。
 でも勿論、それは辛い夜でした。暑さ、湿気、悪臭、不潔さ、大量の虫。安い屋台飯とお茶で、飢えと渇きは何とか凌ぐことが出来ましたが、それ以外は全て僕を苦しめる材料です。

 それでもやがてウトウトし始めた時、突然近くから大音量の音楽が聞こえてきて、僕は目を覚ましてしまいました。驚いてそちらを見ると、どうやら電車待ちの人々の間で、カラオケ大会が始まったようです。既に真夜中を過ぎているのに、一切お構いなく、彼らは歌い続けます。

 場所を変えようか、とも思いましたが、体は動かすのも億劫でした。全身で不快感を味わいながら、僕はそれでも眠ろうとしました。
 と、不意に、聞き覚えのある曲が聞こえてきました。中国語の曲なんて一つも知らない筈だが、そう思って耳を澄ませている内に、それが、中島みゆきの『ルージュ』という曲の、中国語カバーであることに僕は気付きました。
 中国語の歌詞は勿論のこと、日本語の歌詞もよくわかりません。それでも、その哀愁に満ちた曲調に、僕は強い郷愁を感じ、思わず聞き入ってしまい、そしてつい泣きそうになりました。

 曲が終わって暫くして、僕は少し情なくなりました。
 日本を出てほんの十日間ほど。それなのに、もう何十年も旅をしている人のように、日本を懐かしく思っている。
 普段、日本なんて駄目な国だと、偉そうに言っているくせに、ほんの少し辛い旅をしただけで、僕の心はもう折れてしまっている――嫌いな筈の日本に、戻りたくなっている。
 中学生で家出した時と同じだ。不満を溜めて飛び出したのに、打ちのめされて、結局すぐに負けて帰って来る。

 ――僕はもっと強くなりたい。

 武漢の深夜、賑やかな人ごみの中、涙目で膝を抱えた僕は、そう強く思いました。



 







 

 

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