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虫けらのようなADHDがついた、渾身のウソ 【ADHDは荒野を目指す】


 3-32.

 駐ザンビア・日本大使館員の男性から借りたお金で、シャツと下着の替えを一着ずつ購入すると、僕はまた歩いてゲストハウスに戻りました。

 そして、ゲストハウスの食堂で、食事を取ります。久々の――あの睡眠薬入りの炒飯以来の、久々のまともな食事です。
 ようやく一息をついた気持ちになります。

 そこで、思います。
 ――本当に、ここで旅を止めても良いのだろうか?

 そう、僕が申請したのは、パスポートの再発行ではなく、『帰国のための渡航書』の発行です。

 それは、日本に帰る用途以外には使えません。
 もう、他の国に行くことも出来ない――寄り道は終わり、帰宅するしかないのです。

 志を持って日本を飛び出したのに、何も出来ないまま、流れ流れてアフリカまで来て、そこでいきなり全てを奪われて。

 何一つ果たせないまま、何一つつかめないまま、ただ一歳年をとっただけ。
 いや、いい年して、親に借金をしたのだから――マイナスになっただけ。

 こんな状況で、帰国しても良いのか。
 どうしてもそう思ってしまうのですが――もう、どうしようもありません。

 僕の心は、完全に折れていました。

 ただ、睡眠薬強盗に遭って、全てを盗まれただけであったなら、まだ立ち直れたかも知れない。
 強盗にナイフで傷つけられたにも関わらず、旅を続けた福本のように。

 でも、直後に起こった出来事――入国審査官に逮捕を宣告されたという事実は、僕の心を粉々に打ち砕くのに十分でした。

 僕は、一人の人間として尊重されてはいない。
 ただ、むしりとれるだけむしりとるだけの存在。

 そして、そんな扱いを受けながらも、自力では抵抗すら出来ない存在。

 ――僕は、虫けらのようなもの。

 否定しようのないそんな事実が、胸を強く刺すのです。

 それに対して。
 あの、メガネの大使館員はどうだ?

 僕と十歳も違いはしないだろう。
 でも彼は、素晴らしくきびきびしていた。

 日本人ツアー客が射殺されるという大事件に対処しつつ、パスポートをなくした馬鹿な青年にもしっかり対応し、お金だってあっさり貸してくれた。

 有能さもあり、優しさもある。
 僕とは、人間としての格がまるで違う。

 ああいう風になれば、外国でも生きて行ける――というより、ああいう風にならなければ、こんな場所まで来てはならないのだ。

 まともに旅すら出来ない僕が、外国で生きて行くなんて――どだい無理な話だったのだ。
 虫けらみたいな僕になんて。

 そうとしか、思えなくなってしまうのです。

 旅が続けられる筈もありませんでした。


 それから、無為に日々が過ぎます。

 僕は、一切動けません。
 『帰国のための渡航書』の発行には、日本までのフライトチケットが必要なのです。
 けれども勿論、大使館員もそれを買えるような大金までは、貸してはくれない。

 いい年して親に頭を下げ、どうにか振り込んでもらう約束を取り付けた、十数万円のお金――それが、大使館員に紹介してもらったザンビア在住日本人の口座に届くまでは、僕は何も出来ないのです。

 今ほどインターネットの発達していない時代、それがいつなのか全く読めません。

 用事といえば、大使館へ日参するぐらい。

 ーーお金が届いたらすぐに知らせるためと、無事に生きていることを確認するため。

 という理由で、一日一度は大使館に顔を出すよう言われていたため、午前中に出向くのです。
 毎日のことですから、特に話題もない。

 ーー君、臭いよ。ちゃんとシャワー浴びている? ちゃんと服洗ってる?

 そんなことを言われてしまいます。

 着替えは買ったものの、シャンプーも石鹸もない為、体も服も水洗いだけです。
 しかも着替えは一着、季節は秋、生乾きでも、それを着なければならないのです。

 臭わない筈がないーー僕はそんな自分を恥じますが、どうしようもない。


 大使館参りが終わると、お金のない僕には、もう出来ることはありません。

 ゲストハウス内にプールがあり、その脇にリクライニングチェアが置かれていました。
 僕はそこでゆっくりしようとします。


 けれども、気づけば周囲は人で満ちている。

 お洒落でスタイルのいい欧米人カップルが多数、プールサイドで騒ぐのです。

 余りにうるさく、居心地が悪い。

 静けさを求めて、ベッドに戻ろうとすると、ゲストハウスのイギリス人オーナーの飼い犬ーー巨大なシェパードがじゃれついてきます。


 僕は犬好きですが、流石に大きすぎるーー少し怯えて後ずさると、その犬は僕の足にしがみ付き、腰を振り始めます。


 それを見た欧米人たちが、大声や口笛で囃し立てます。

 ーー犬にさえ、僕はセクシーに見えるらしい。

 そんな気の利いた言葉が、咄嗟に思いつく筈もありません。

 ただ黙りこくったまま、少し怒った表情を作って、懸命に逃げるだけです。


 ただ自分の惨めさだけを痛感しながら、日々を送ります。



 やがて、そんな僕の唯一の理解者である、フィリップが宿を離れる日が来ました。
 勿論お金は返却済みですが、流石にそれで終わりの話ではありません。

 僕は何度も何度も彼に礼を言います。

 フィリップは微笑んで言います。
 ――君が旅を続けられて本当に良かった。
 ――君は本当に礼儀正しい人間だ。
 ――もしよければ、クリスマスにベルリンまで来てくれ。
 ――家族に紹介するから、一緒にクリスマスパーティーをしよう。

 行ける筈がありません。
 お金もない、パスポートもない僕が。

 でも、そうは言えませんでした。


 僕はADHDですーー面倒なことが一番嫌いです。
 だから、自分を大きく見せるためのものを除けば、嘘は余りつきません。
 嘘に嘘を重ねなければならないのが、面倒だからです。

 他人を喜ばせるようなお世辞なども、一切言いません。
 前回ああ言ってくれたのに、今の言葉は違うじゃないかーーそんな風に責められるのが面倒だからです。

 
 それでもーー僕はもう二十八歳で、フィリップは本当の恩人でした。

 僕は、嘘をつくことにして、口を開きます。

 ――行けたら行くわ、と。


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