見出し画像

穏やかな「出涸らし」 【ADHDは荒野を目指す】

 1-6.

 僕の家出はたった三日で終わりましたが、その残した影響は大きい物でした。

 両親は僕を叱りはしませんでした。父は、お前も度胸がついたな、とニヤニヤしながら言っただけ。母は泣いただけです。警察に捜索願を出し、交互に仕事を休んで僕を探していたようではありますが、それらのことで負担をかけたと僕を責めることはありませんでした。
 逆に、僕を物置部屋から個室に戻し、勉強のことを口やかましく言うこともなくなり、お小遣いも復活しました。
 そうして僕は、思わぬ形での、監獄からの解放を得たのでした。

 その後の僕は、多少の落ち着きを得ます。勉強をしないこと、生活がだらしないこと、それらは大して変わりませんが、「死にたい」という気持ちは弱まり、攻撃的な言動をすることも減りました。親のお金を盗むこともしません。

 さらに言えば、「我慢する」ことも出来るようになってきました。
 ADHDはそもそも、大概の物に対して退屈を感じる一方で、少しでも魅力的だと感じる物があれば、それにひどく執着するものです。
 僕のその例に漏れず、ゲームがしたい、漫画が読みたい、そんな情熱に取りつかれて、犯罪行為をしてまでそれらを入手しようとしました。
 けれどもその結果が、あの過酷な三日間だったのです。欲望のままに動けば、痛い思いをする。どれだけ愚かな僕でも、流石にそれは良い教訓となりました。
 そうして僕は、「我慢する」という能力を身に着けたのです。
 我慢していれば、いずれ僕も大人になる。そうなれば、何でも自分の思い通りに出来る。それまでとにかく我慢だ。僕はそう思えるようになったのでした。

 一方、「自信」に関しては、完全に消失させてしまいました。
 勉強が出来ないだけでなく、社会でも役に立たない――あれだけ苦しんでも、一銭すら手に入れられなかった。自分はあらゆる意味で無能だ。僕はそう思うようになり、完全に自信を喪失します。
 そしてその結果、僕は他人に突っかかることはなくなり、親に対しても口ごたえをしなくなりました。
 僕は何も出来ない人間なんだ。だから何もするべきじゃないし、何も言うべきではない。そう思って、自我を抑えつけて暮らしたのでした。

 そして、高校の三年間は、比較的穏やかなものになりました。
 相変わらず勉強はしませんし、身の回りの整理整頓も出来ません。特に良いこともしませんが、特に悪いこともしません。
 そんな僕に対して、両親も厳しく叱咤することはなくなりました。家出の件で懲りたということもあるでしょうが、それ以上に、おそらく僕のことはどうでもよくなったのでしょう。
 何せ僕の兄が、凄まじいエリート路線を突っ走っていたのです。ずっと首席であるだけでない。模試でも全国一位、生徒会長に選ばれる、運動部のキャプテンになる、とある国際大会の日本代表に選ばれる。そんな末に、京都大学理学部にも、きっちり首席合格を果たしてしまうのです。

 そんな子供が一人でもいれば、もう親は鼻高々です。本人も親も何度かマスコミのインタビューを受け、彼を中心に据えた「天才児の作り方」のような本が出版される有様です。
 こんな状況で、成績不良の二人目の子供――周囲に「出涸らし」と呼ばれるようになっていました――にまで、過剰な期待をする必要なんてないでしょう。大きな問題を起こさない限り、適当に放置していても構わない。僕はそんな存在になっていたのです。

 「出涸らし」という、何も期待されない、何も期待しないでもよい存在として、僕は穏やかに日々を過ごしていました。

 けれども。
 高校卒業の日――大人になり、自由になれる筈の日が近づいてくるにつれて、僕は不安を覚え始めます。
 何せ、相変わらずの成績不良です。このままでは、僕は大学には入れない。そうなると問答無用で僕は就職をさせられるか、或いは家を追い出される。――過酷な社会に出なければならなくなる。そしてあの三日間の家出生活のことを思い出し、ひどく怯え、どうにかしなければ、と強い焦りを覚えるのです。
 けれども、僕はADHDです。嫌なことからはとにかく逃げる人間です。
 大学入試に向けて、勉強をしないことは仕方ないとしても、他のもっと簡単な努力さえも、一切しません。自分にでも合格出来そうな大学や学部を調べる、というようなこともしません。国公立大学の入学試験には、マークシート式のセンター試験と、記述式の二次試験の二つがある、という程度のことすら知ろうともしません。

 そして高校三年生になると、周囲の誰もそういった情報収集を手伝ってくれない。
 僕は何一つ知らないまま、時間を過ごしています。

 十八歳という、灘でなくとも自立が要求される年齢になっても、僕は愚かなままでした。




 








 
 

 

 
 

 


 

 















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?