他人の心が分からないADHDだからこそ、高得点が取れる。 【ADHDは高学歴を目指せ】
8.
授業も聴けない、集中も出来ない、計画も立てられない、守れない。
そんなADHDの僕であっても。
徹底した英才教育に加え、読書以外の一切の娯楽が禁じられた環境で育ったがために。
国語力だけは伸ばすことが出来て。
それなりの大学の文学部に入ることは出来ました。
けれども、親元を離れた途端、僕の生活のタガは外れ。
アルバイトとゲームだけの毎日に陥り。
やがて、大学も中退してしまいます。
けれども。
僕はこの状況から。
二十一歳の時に、一人きりでの受験勉強を始め。
翌年、京都大学の理系学部に、合格してしまうのです。
何故、こんなことが可能であったのか。
その主要な原因は。
その春、一つ年上の兄が病死し。
――人生は短い、やるべきことをやらねば。
そう痛感したからです。
そして、『勉強しなければならない』『勉強以外は全て悪』という、幼いころに植え付けられた強迫観念に囚われていた、僕には。
『勉強をする』以外の選択肢は、なかったのです。
とはいえ。
何よりも、意志が弱く、考えの浅い僕からは。
そんな思いすら、数か月も経てばすっかり薄くなってしまった。
流石に勉強から逃げ出すことは出来ませんでしたが。
予備校に行かなきゃ、学習計画を立てなきゃ、分からない問題は誰かに質問しなきゃ、せめて模試は受けなきゃ。
そんな思いは浮かんでも、ADHDの僕は、一切実行に移すことはなく。
つまり、他人の目を介して、自分の現在位置や問題点を把握することもなく、改善点を指摘してもらうこともなく。
僕は一人きりで、ダラダラと勉強を続けたのです。
何故これで、京都大学に合格出来たのか。
そこには、色々な要素が絡んではいるのですが。
精神面はさておき。
まず単純に、得点面から、その分析をすると。
今でいう『共通テスト』、当時の『センター試験』で、高得点を取れたことが、何より大きい。
センター試験では、高校三年の時も、良い点を取れたのですが。
この再受験の時にも。
模試すら受けていない僕にとって、約四年ぶりの大きな試験であったにも関わらず。
非常に良い結果――全教科通算で、九割を超える正答率を叩き出したのです。
そんなことが出来たのは、やはり。
『国語力』がモノを言ったのだと思います。
中高六年間、読書ばかりしていた僕が、国語はある程度出来たのは当然ですが。
ただ、理系の受験ですから、国語の得点配分はそれほど大きくはない。
しかし。
僕の国語力というのは、決して真っ当なものではない。
文法など一切分からないし、漢字や諺の暗記なども一切していない。
けれども、それを補って余りある能力が、僕にはありました。
読書は大好きな僕でしたが。
ADHDであるために、前のめりになり、飛ばし読みばかりしていたお陰で、ストーリーを追い切れないことが多く。
また、語句の意味や漢字の読み方も分からないことが多かった。
それでも、先を読み進めるために。
常に、これはどういう意味だろうと、『推理』しながら文を追う癖がついていたのです。
一字一字丁寧に追う人に比べて。
読める量も多い上に、思考を働かせる量も多い。
ちなみにこれは、読書だけでなく、人間関係においても同じで。
周囲にいる人達の考え方が、僕には一切理解出来ず。
謎だらけの毎日です。
常に、疑心暗鬼の中――それこそ、推理小説に登場する探偵のような状況にいるのです。
しかも。
コンプレックスに満ちた僕は、しょっちゅう嘘を吐いている。
その嘘をうまく貫き通すために、ストーリーを練り上げなければならない。
その中で、どうにか生きて行くためには。
いつでも、相手は何を考えているのだろうかと、一生懸命『推理』しながら、他人に接しなければなりませんでした。
そう、僕は、二十四時間、事件解決を要求される『探偵』のように生きていたのです。
素直に、無邪気に、天真爛漫に、他人と接する子供達とは、随分違う時間を過ごしてきたのです。
頭の回転がある程度速くなるのも、当たり前です。
ただし。
現実生活においては、そうして推理した結果が当たることは、ほぼない。
『こう言えば喜んでくれるだろう』『こうすれば嬉しいだろう』、そんな風に思って行った言動が、相手を不快がらせたり、怒らせたりするのは、しょっちゅうあること。
当時は勿論のこと。
様々な経験をしてきた五十になった今でも、同じようなことをしてしまうことは多い。
完全な、『へっぽこ探偵』です。
けれども。
勉強とは、『型にはまった』ものです。
特に、高校までの学習範囲であれば。
全てが、『筋が通る』ように出来ています。
そこで、ミス等のせいで推理違いをしてしまった場合も。
反省し、考え直せば、必ず答えに到達できます。
しかも、大量に読書してきた人にとっては、決まり切った展開の文章・決まり切った性格の登場人物ばかり。
『自然破壊しろ』等の暴論を吐く評論家もいないし。
『人の心のないサイコパス』だって登場しない。
『授業を聴かないでも勉強は出来る』と書く筆者もいないし。
『ミスばかりするADHD』も登場しない。
きっちり型にはまった世界。
その推理力が大いに活きる世界です。
現実生活で、うまく行かない分。
勉強の世界で結果を出せることは、より大きな喜びになります。
特に。
センター試験というのは、基本的に、『選択肢が与えられる』形式のテストでした。
これは、僕にとって、非常に有難いことでした。
何せ、『答えを導き出す』必要は殆どありません。
与えられた選択肢の中から、『間違いを探し出す』ことが重要なのです。
常に、『自分が間違っているに違いない』と思って生きて来た僕にとって。
嘘ばかり吐いてきた僕にとって。
これほど適したタイプのテストはありません。
しかも。
テストには制限時間があるのも、僕にとって有利に働く。
何せ、常に前のめりの僕は、速読力が相当に高かったのです。
他人より素早く読み、他人より素早くチェックする。
その力で、高得点を得ることが出来たのです。
そしてこの力は、国語だけでなく。
英語でも、大いに活かされました。
僕は、ある程度の単語を頭に詰め込んだだけで。
文法問題では流石に厳しく、大量に失点はしてしまいましたが。
読解問題は、お手の物。
分からない単語や文法がどれだけあろうが。
素早く読む、再読する、その習慣や。
『どの言語であれ、文章は大概こう展開される』という知識が、大いに活きて。
題意を掴むことがうまく。
かつ、不自然な選択肢を見抜くこともうまい。
長文読解では、殆ど失点をしません。
さらに幸運なことに。
当時はまだ、リスニングテストがなかった。
聴覚情報処理障害のある僕にとって、リスニングは本当に鬼門であり。
後に受けた、TOEICやTOEFLでは悲惨な得点になってしまったのですが。
当時のセンターテストにはまだそれが含まれていなかったお陰で。
英語での失点は、文法分野だけにとどめることが出来たのでした。
かくして、センター試験において、国語・英語は、それなりの得点を修めることが出来た。
社会もまた、歴史小説好きだったお陰で、歴史教科で高得点が取れた。
こうなると、問題は、数学・理科です。
何せ僕は、文系だったのですから。
けれども。
センター試験では、生物で九割以上の得点をとり、数学では満点をとったのです。
まだ、理科は分かります。
生物がそもそも好きでしたし、推理力が活かされる問題が多い、。
しかし、数学は、そうは行かない。
センター試験においても、数学は、『選択肢の中から正解を選ぶ』ケースは少なく。
『算出した数字をマークする』形なのです。
一つの問題の解答欄が「ア・イ」のようになっていれば、『答えは二桁か』程度の推理は出来るものの。
一桁や三桁の答えが出てしまった時に、間違いだと気付ける程度のヒントでしかない。
こんな、数学のテストで。
どうして僕は、満点を取れたのでしょうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?