ADHDは思い通りに生きてはならない 【ADHDは荒野を目指す】
3-6.
北海道にある山中の家を出た僕は、札幌を経て小樽に行き、京都の舞鶴に向かう船に乗り込みました。
関西にある実家に帰るためです。
山中の姿を見て社会復帰を決めた僕にとって、それ以外の選択肢はあり得ませんでした。就職に必要不可欠な住所が得られる上に、滞在するのにお金がかからない、最後に残った場所なのですから。
ただ、爽やかな風の吹く船の甲板にいても、心は陰鬱な気分に占められています。
折り合いの良くない親と何度も喧嘩し、何度も啖呵を切って家を飛び出しても――結局そこに戻るのです。二十代後半にもなっているのに。
自分自身が情けなくてなりません。
それでも、暫くは耐えようと自分に言い聞かせます。
公務員試験に合格するかも知れない。そうでなくとも、まだ若いのだから、どこかに就職は出来るだろう。そして今度はちゃんと我慢して、ちゃんと働いて、きっちりお金を貯めて、その上で実家を出ればいい。とにかくそれまで辛抱をしよう、と。
そう考えても、一切明るい気持ちにはなれません。引っ越せるだけの資金を貯めるのに必要な期間――半年だか一年だか分りませんが、それは遥か遠くの未来のことに思える。
いや、そもそもそれ以前に、就職活動をすること、その為の書類を書くこと、集めることさえ、もう面倒でたまらない――想像するだけで、逃げ出したくなってしまうのです。
ましてや、それらをうまくやり遂げたところで、その先にはさらに面倒なこと――毎日早起きして、人間関係に苦しみながら詰まらない仕事をする、という毎日が待っているのです。
でも、もうそこから逃げることは出来ない。
大学を中退し、履歴書に空白を作った。やっと大学卒業したが、その時点で二十六歳、さらに簡単に会社を辞めて、その後履歴書にまた空白を作ってしまった。
ただでさえ随分寄り道をしているのだから、もうこれ以上は一日たりともフラフラしていることは出来ない――そんなことをすれば、最早社会に戻ることは出来なくなるだろう。
だから、辛くても耐えるしかない。
僕はただ溜息を吐きました。
舞鶴に到着する直前、船の甲板にて、僕は一人の欧米人と軽く会話をしました。
彼はアメリカ人であり、半年間北海道のスキー場で仕事をしていたそうです。そして先日その仕事を終えて、帰国しようとしている所だという。
じゃあ最後に京都観光をしてからアメリカに帰るのか、というようなことを尋ねると、アメリカに帰るというのはその通りだが、彼は京都が最後ではないと笑います。
京都の次には広島に行き、さらに博多に行くし、その次は上海で、その次は北京で……。
僕は急いで彼を制して、上海や北京は日本ではなく中国だよ、と教えてあげますが、彼は笑って、勿論知っていると答えます。そして、日本の次は中国に行き、それからモンゴルに行きロシアに行く、と言うのです。
アメリカから遠ざかっているじゃないか、今からアメリカに帰るのではなかったのか、と尋ねると、彼は笑って、そう、今からアメリカに帰るのだと答える。
僕が混乱しているのを見て、彼は笑って言いました。
――地球は丸いだろう?
少し考えて、ようやく僕は彼の意図を理解をします。
つまり彼は、西回りで、東にあるアメリカに帰ろうとしているのです――地球を一周して。
どれだけ時間とお金がかかるのでしょうか。普通に飛行機に乗れば、数日で行ける道程を。
ひどく遠回りだ、と僕は呆れます。
すると彼はまた笑って、言ったのです。
――You know, we're always on the way home.
――俺達はいつでも、帰り路の途中にいるようなものじゃないか。
――一つの言葉や出来事で人生が変わった、ということは、僕の人生では一度もありません。
ただ、きっかけになることは何度もありました。
それまで、心の奥深くに押し込んでいた気持ちが、一気に表面に噴出してくる、そのきっかけに。
この時のアメリカ人の言葉は、完全にそれでした。
やがて船が舞鶴に到着しました。
既に夜遅く。公共交通機関は動いておらず、そのアメリカ人を含めた多くは車やバイクで去って行きますし、残りの人達は予約した宿に向かう。
僕一人、港近くのベンチで朝を待ちます。
久しぶりの――チベット以来の、野宿です。
そして、そのベンチの上で、あのアメリカ人の言葉について考えたのです。
聞いた直後は、彼の言いたいことが良く理解出来ませんでした。
けれども、繰り返し考えている内に、ぼんやりそれが見えてきます。
家を出た後は、どこに行こうが――たとえ地球の反対側に行こうが、何の違いもない。結局最後には家に戻る、というのは、何も変わらないのだから。
そういう意味のことなのだろう、と。
そう思えば。
僕だって、急いで家に帰らなくても、もう少し寄り道しても、良いのではないか、と思えます。
いや、そもそも。
「家」という言葉に対して、具体的な「家屋」「家族のいる場所」をイメージする必要もない。
それを、全ての人がそこからやって来て、既に兄が二十二歳で戻って行った、「あの世」と呼ばれるような場所だと考えれば――僕だって結局最後にそこに戻るのは同じなのだから、その道中、何をしていようが、どこに行こうが、大きな違いはない。
社会の中で頑張って生きるのも、それをしないのも、大きな違いはないのではないか。
それなら、思い通りに生きるべきではないか――そう思えて来るのです。
勿論そんな考えは、その時初めて生まれて来たのではありません。
「一度きりの人生なのだから、思い通りに生きなければ勿体ない」
そんな言葉は、本当にそこらじゅうに転がっています。陳腐だと言っても良いぐらい。
だから、それまでの僕も、その言葉をよく浮かべていました。
でも同時に、その言葉が間違っていることも、良く知っていました。
僕はADHDです。
「不注意優勢型」ではありますが、「衝動性」も併せ持っています。
その為、小さい頃から、深く考えることなく、思い付きで動いてしまうことは多くありました。
三メートルの高さからアスファルトの上に飛び降りてみたり、中学生相手に石を投げてみたり、橋の上から下の車目がけて空き缶を投げてみたり。
その全てで、大怪我をしたり、殴られたり、通りがかりの大人にこっぴどく怒られたりします。
多少成長してからも、万引きしてしまったり、家を飛び出したり、大学を中退してしまったり――そしてその全てで、窮地に陥ってしまいます。
そう、ADHDである僕の、「思い通りの行動」は、全て、ひどく痛い思いをして終わるのです。
しっかり自分と向き合い、様々なことを天秤にかけた挙句、「損をするかも知れないが、思い通り行動しよう」――そんな風にしっかり考えられる人々と僕とは、同列に語ることが出来ないのです。
少なくとも僕は、思い通りに行動してはならない。
二十代半ばを過ぎると、愚かな僕でも、流石に、その程度のことを考えられるようにはなっていたのです。
勿論それでも、その衝動性を抑えきれず、愚かな行動をしてしまうことはしょっちゅうあったのですが、それでも、後になって、やっぱり自分が間違っていたーーと思えるようにはなっていました。
だからこそ、その時の僕は、辛い思いを覚悟の上で、家に帰り、就職する為に、船に乗ったのです。
――でも。
その港のベンチの上で、アメリカ人の言葉を浮かべながら、僕は思います。
僕はまだ、家に――社会に戻りたくない。
そして久しぶりに――本当に久しぶりに、共に苦しい旅をした陽気なチベット人青年、タシ達四人組のことが浮かびます。
地を這いずりながら何か月も、何年も旅をする、巡礼者達のことが浮かびます。
彼らが口ずさんでいた、憧れのユートピア――シャンバラの歌が浮かびます。
トラックの荷台の上、途轍もない寒さに耐えながら見た、ナクチュの街明かりを思い出します。
それら全て、遠い世界のことなのに、何より僕自身が今故郷の近くにいるのに、心の中には、郷愁としか呼びようのない思いが渦巻きます。
あの世界に戻りたい。
そんな強い気持ちが、抑えきれなくなります。
真夜中の舞鶴港のベンチの上、僕はそして心を決めたのでした。
もう一度旅に出よう、と。
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