見出し画像

非嘔吐過食と歩む25年・私のダイエット遍歴④

記事一覧↓

◆【高校2年生・4〜8月】登校拒否と拒食

さて、どうやって帰宅したのかも覚えてないが、とにかくこの日を境に学校に行かなくなった。むしろ、望まぬ学校に通いながら、今まで登校拒否してなかったことの方が奇跡ではあるが。

この頃から、母に連れられて心療内科に通うようになる。心療内科への抵抗はなく、「むしろ早く連れてってくれたら良かったのに」と思っていた。

休める大義名分ができて嬉しかったし、「精神科に通ってるとか、かっこいい」みたいな厨二病的側面もあった。心療内科では「自律神経失調症による抑うつ状態」と診断され、精神安定剤や入眠剤などを処方された。

正確な時期はうろ覚えだけど、その頃中谷美紀さん主演の「R-17」ってドラマがあって、そのドラマとそれに出てるモデルの黒澤優ちゃんが大好きで、少し心に影があるような女子に憧れがあったのよね(拗らせ)

4月は、ほぼ寝ていたと思う。
この頃は、食べたい物が何も無かった。

というより、急激に「太っている自分は汚い、醜い、臭い」と感じるようになり、鏡を見られなくなり、ご飯を食べられなくなった。

この時期に食べていた物は、ココナッツプリンか、リプトンのココナッツミルクティー。
これを、1日1個とか、1日1本とか、それしか口にしない。

プリンとミルクティーの画像を探したが見つからなかったな。タピオカも時々食べてた。

要はココナッツ味の、ゲル状〜液体なら受け付けるということらしい。あとはマンゴープリンも大丈夫だった。けどこちらも1日1個。

ココナッツミルクティーは母が箱買いしてくれた。この頃の母は、私が小学生の頃に比べてだいぶ態度が軟化され、全然厳しくなくなっていた。(これは、私に先駆けて、2個上の姉が高校時代に心身面で色々と崩れて、母とやり合った功績による)

そんな食生活を続けていると、さすがに痩せてくる。体重はひと月で一気に7キロほど落ちて、56kgになった。

ただ、そのことは私にとっては喜びでもあった。この身長になってから痩せるのは初めてのことである。脚も細くなり、ミニスカートも堂々と履ける。ほっそりした自分を見て、なかなか可愛い、悪くないと思った。

GW明けくらいからは、痩せたこともあって少し前向きになり、外に出るようになった。
とは言え高校には行かない。この時期に、姉の大学に遊びに行って、お兄さんお姉さん達とお話したのがすごく楽しかった記憶がある。

当時はNHK朝の連続小説で「ちゅらさん」を放送していた。わたしはその影響から何故だかサーターアンダギー作りにハマり、暇さえあればサーターアンダギーを揚げていた。そして人に食べさせては喜んでいた。

わたし自身、自分で作ったサーターアンダギーなら、抵抗なく食べられた不思議。
そんなに量は食べないけれど。

今でも「ちゅらさん」は大好きなドラマだし、岡田惠和さん脚本のドラマは、優しい世界で大好き。


◆【高校2年生・秋】復学、からの過食症へ

とは言え、ずっと家にいるわけにはいかないようで、何となく母から「いつ学校行くの?」という圧を感じるようになった。

わたしは痩せたことで自己肯定感が少し上がったのと、部活で一応その年の舞台の小さな役をもらっていたので、自分でも「一回は顔出すか」という気持ちになっており、6月の終わりに学校まで足を運ぶことにした。電車を乗り継いで向かうが、吊り革を持つ自分の腕の細さにうっとりする。

部活動中のホールに顔を出してみると、部員のみんなが驚き、口々に「痩せた!」「すごい痩せたね!!」と褒めて(?)くれた。これは快感だった。

夏休みまで間も無くだったので、そこからひと月弱は頑張って登校した。記憶はほぼない。
夏休みは文化祭に向けて部活三昧。
痩せたことで、後輩からも憧れられる先輩になれた気がして、部活はとても楽しかった。

そんなこんなで、文化祭の舞台本番までは気力体力がもった。過食のスイッチが入ったのはこの直後だった。

文化祭当日は、先生や生徒による食べ物の屋台がいくつか出るのだが、目玉は外部から来るアイスクリーム屋さん。毎年大人気。
安っぽいアイスクリームじゃなくて、サーティーワンのようにお洒落なフレーバーがたくさんある。うら若き女子にはたまらない。

本番を終えた私たちは、打ち上げがてらみんなでアイスを食べることにした。

わたしは、ゲル状や液状のものなら抵抗なく食べられるので、アイスクリームも大丈夫。
いかにも美味しそうな、メープルウォールナッツアイスを、コーンで頼んだ。

ひと口食べた時、「カチッ」と音が鳴ったような心地がした。これが過食スイッチが入った瞬間である。

うまい。
うまい。
うますぎる。
なんでこんなにうまいんだ。

わたしは貪るようにアイスを食べた。
ものの1分もかからなかったと思う。
食べ終わっても全然物足りない。
もう一個食べたい。

まさに喉から手が出てくるような心地。
乾いた大地に水が染み渡るような快感だった。

この日の帰り道に、久しぶりにキオスクでチョコを買って、ボリボリ食べながら帰宅した。
もうここからは、過食が止まらなくなる。

そして、無理して復学した私は、文化祭という節目を終えるとまた抑うつ状態が悪化した。
その後の全国大会地区予選まで頑張る気力が保てず、再び休学することになる。

中途半端な時期に舞台を降板することが申し訳なくて、演劇部のみんなに手紙を書いた。
偏見が怖かったので心療内科に通ってることや、自律神経失調症のことはなんとなく伏せていたのだが、そのことも包み隠さず手紙に書くことにした。

ところが、それに対してのリアクションが、一切なかったのだ。
これはかなりショックだった。

誰からも返事がない。メールすら来ない。
まるで元々わたしはいなかったように、世界は回っていた。

特に、当時の親友(だと思っていた子)は、返事の手紙か、せめてメールか何かくれるだろうと思っていた。「辛かったね、ゆっくり休んでね!待ってるよ」と言ってくれることを、信じて疑わなかった。

しかし、何も無かった。
それ以降、演劇部のみんなからは一切音沙汰が無かったのである。

「心療内科という言葉に戸惑ったのかもしれない」

「中途半端な時期の降板に怒ったのかもしれない」

「そもそも、手紙が届いていなかった?」

何度も考えたが、正解は分からなかった。
それ以降誰にも会っていないから。
全ては憶測の域を出ず、彼女たちの真意はわからない。

しかし、わたしはかけがえのない仲間から見捨てられたように感じた。わたしには部活しかなかったのに。多感な17歳にとって、これはひどい仕打ちだった。

特に親友。彼女はこちらが傾けるほどの想いを、同じように抱いていてはくれなかったのだ。
あんなに大好きだったのに。

「わたしが思うほどに、相手はわたしのことを思っていない。わたしには価値がない」

この絶望が、わたしの過食衝動をますます後押しした。


◆【17歳】退学、引きこもり、人生MAX体重

わたしは再び学校に行けなくなったが、そんなわたしにも夢はあった。前回の記事でも少し触れたが、「女優さんになること」である。

小学校から演劇部で、演技をすることが好きだったし、演技が上手いと褒められることも多かった。テレビを見るのも好きで、ドラマや映画もよく見ていた。葉月里緒奈さんや常盤貴子さんのような、おしゃれで猫っぽい美人女優に憧れていた。

母からもよく「舞台女優を目指すと良いよ」と言われていた(テレビに出てチヤホヤされてるミーハーな感じよりも、舞台女優の方が実力があって地に足ついてる感じで母の好みだったんだと思う)ので、自然と「舞台女優になろう」と考えるようになった。

そもそも、わたしが通っていた中学高校は、演劇に力を入れている学校だったので、女優や業界人を目指す人は多かった。宝塚受験をする子も少なくなかったし、アナウンサーやタレントになった子も多い。
(余談だが、前述の親友も大学卒業後にアナウンサーになった。ある日うっかりテレビで見かけてしまい、苦しくて寝込んでしまったことがある。)

「学校に行かない分、早く女優を目指そう!」そう思って、ネットの掲示板で舞台のキャスト募集をしているユニットに連絡を取ったり、自主制作の映画を撮っている監督にメールをしたりして、経験を増やすことにした。その時の芸名が「梶 瞳子(かじ・とうこ)」である。
今のハンドルネーム。

当時、藤田瞳子さんという女優さんがいて、字面や響きが綺麗だと思って拝借したのだ。(調べたら今も活動されているみたい!)
苗字は、姓名判断が完璧になるような漢字を探して、当てはめた。

(お金が発生する)初めての舞台は、緊張したがとても楽しかった。友人たちを差し置いて、女優としての第一歩を踏み出せた気がした。

舞台には、憧れのA先輩も招待した。どうやって連絡を取ったかは覚えてないが、チケットを送りつけたんだったかな?
まさか本当に来てくれると思ってなかったから、久々のA先輩の姿を客席に見つけた時は、飛び上がりたいほど嬉しかった!
共演のお兄さんが「なんだあの人!芸能人みてぇだ!顔が豆粒みてぇに小せぇな!」と先輩の美貌を褒め称えていて、わたしはそれが自分のことのように誇らしかった。

(これも余談だが、実はA先輩もその頃メンタルを病んでたらしい。詳細は分からないが、学校に行けておらず、休みがちだったみたいだ。体型から判断すると、ひょっとしたら拒食傾向だったのかもしれない。あんなに全てを持ってるような人でも、心を病むのだなぁと、不思議な気持ちになった。)

この頃のわたしは、過食傾向にはあったものの、舞台や映画に打ち込んでいたので今思えばそこまでひどい状態ではなかった。一時期56kgまで減った体重は2ヶ月もすると元に戻ったが、それでもまだぽっちゃり程度。

だが、毎度のことながら、本来しっかり休むべき時期に心身共に無理をしている状態なので、舞台が終わった瞬間また燃え尽き症候群のようになり、わたしは再び動けなくなってしまった。

そしてこの辺からいよいよメンタルが異常をきたす。過食は劇的に悪化。昼夜逆転生活も始まった。心療内科で食欲を抑える薬をもらったり、かなり強力な睡眠導入剤を処方されたが、これらも全然効かない。

夜は寝られないので夜通しテレビをボーッと見て、家にあるお菓子のストックを端から平らげる。

昼間は雨戸も開けずに引きこもり。不規則な暮らしでニキビが大量にでき、みるみる間にぶくぶく太っていった。しかも家から出ないので、鏡も見ないし、パジャマから着替えることもない。

セルフイメージは、「異臭のする、油ぎった肉塊」だった。

学校にも行けず、引きこもってばかりで、女優にもなれない、価値のない自分が生きていることが辛くて、薬を大量に飲んで(オーバードーズ)、自殺を図ってみたことも何度かあった。実際のところ、そんな簡単に人は死なない。昏睡後に吐き気で目覚めて、胃の中身が無くなるまで何時間も嘔吐し続ける。これがとても苦しい。

ただ、オーバードーズの結果嘔吐し続けると、体重が大幅に減るので、それで少し痩せたことが嬉しかったのも覚えてる。
死にたいという気持ちは本当だったが、どこか「(死ぬことに)失敗しても、結果痩せられるからオッケー」なんて期待もあったように思う。いま思えば、これはかなり病んでいる状態だな。

いつまで経っても出られない真っ暗なトンネルの中にいるような日々が続いた。過食で心と脳を麻痺させるしか、生きる術がない。
別にお腹など空いていないが、食べていればとりあえず時が過ぎるから、何も考えずに詰め込んでいく。

過食の結果、ぶくぶく太って醜くなっていくことは許せないが、わたしはうまく吐くことができなかった。前述のオーバードーズ後の苦しさがトラウマで、吐くこと自体が怖くなっていたのである。それに、太ったところで外に出るわけでもなし、鏡も見なけりゃ風呂にも入らないから、太っているという事実から目を背け続ければ良い。

「感覚を鈍らせろ」

そうしてさらに過食を続ける。
食べるものが何もなければ、マヨネーズを飲んだり、バターに砂糖をふって齧ったり、とにかく食べられれば何でも良かった。

そんな生活が半年以上続いた。
高校は、2年次の年度末に正式に退学することになったので、わたしはいよいよ本物の「引きこもり」になった。

体重は人生最高を記録した。
…はずである。

と言うのが、この頃は体重計に乗ることすら避けていたので、正確な数値が不明なのだ。

この半年後くらい、大学入学前に久々に体重を測ったら72kgだったので、それよりも太ってたこの時期は75kgは軽く超えてたと思う。

覚えているのは、トイレで用(大)を足したあと、お尻を拭こうと思ったらお腹の肉がつかえてうまく拭けなかったこと。
その時に「うわ、わたしって本当に太ってるんだ」とゾッとしたが、いかんせん鏡を見ないので、状態が把握できなかった。

「止まない雨はないとか、明けない夜はないって言うけど、それは嘘だな」
「わたしの雨は止まないし、夜は永遠に明けない」

毎日そんなことを思いながら、床に転がっていた。


〈つづく〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?