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星の数ほどいる戦国武将の中でもひときわ異質な存在感を放つのが明智光秀である。
一般的には「本能寺の変で主君である織田信長を裏切り、暗殺した反逆者」というイメージが最も強いだろうか。
生年は諸説あり(1516年とも1528年とも言われるが、『明智軍記』記載の1528年生まれが有力か)、美濃国守護であった土岐氏に仕えるも主君である土岐頼純が下剋上にて斎藤道三に敗れ、道三の家臣となるも道三と嫡子義龍の争いの中、一族が離散。その後は越前にて牢人生活を送った光秀が表舞台に姿を表すのは1565年、永禄の変にて足利義輝が討たれ、室町幕府十五代将軍である足利義昭が全国に発した檄文により集った足利方の武将の一人として参戦し高嶋田中城での防衛に参加するところからであろう。以降は足利の家臣となり、義昭を伴って上洛した織田信長とも交わりを持つようになる。光秀を気に入った信長は光秀を臣下に組み入れ、光秀は比叡山の焼き討ちや浅井・朝倉連合軍との戦いである姉川の戦い、その他数々の戦に参加し勲功を立てた。
事態が大きく動くのは1582年、中国地方へと駒を進めようとしていた信長を急襲しこれを暗殺した「本能寺の変」である。
本能寺の変からわずか11日後、山崎の合戦にて羽柴秀吉に敗れ戦死。「三日天下」と称されるほど短期間の独立には「先見の明を持たず、感情に任せて反乱を起こした浅はかな武将」という印象もあるだろうか。
延暦寺焼き討ちでは「皆殺しにする」と手紙にしたためた残虐な一面もあり、また丹波八上城攻めでは補給路を絶ち兵糧攻めにて攻城戦を進め多数の餓死者を出すことに成功。また自軍には略奪を禁止し徹底して皆殺しにするよう厳命した。
かと思えば、正室である煕子との婚姻前には煕子の顔に疱瘡が出来たのを気にせずに娶り、妻としている。また、生活が苦しかった光秀が金の工面に困ると煕子は自らの美しい髪を売り、光秀の助けとなっているなど良き夫婦であったとされる。家臣に対しても筆まめであり、家臣が病気や怪我をした際には手紙をしたためて養生を勧めるなど心遣いを絶やさなかった。
そして、光秀が治めた亀岡では善政を敷き、領民から愛され、亀岡市では現在でも毎年5月3日に「亀岡光秀まつり」が開催されている。
数々のイメージを持つ光秀の真の姿はどこにあるのか、現在でも喧々諤々の議論は続いている。

そんな中、2015年に熊本市内で発見された中世の医術書「針薬方」(「しんやくほう」または「はりくすりかた」)。
著者は足利義輝・義昭に仕えた米田貞能で、同じく足利家に仕えていた沼田清長が明智光秀から口伝された内容を米田が書き写したものとされている。米田は医術に通じており、後に肥後細川家に仕えることとなる。米田は武士であり、医者でもあったとされている。
この奥書には「高嶋田中籠城の時」に「針薬方」について明智光秀が沼田清長に「口伝」した、永禄九年(1566年)10月20日に坂本で沼田清長が米田貞能に「相伝」した。という内容である。口伝の内容については光秀が持つ家庭医学的な初歩の医術について記載がされており、越前で牢人生活を送っていた頃に知ったであろう朝倉氏由来の傷薬「セイソ散」の材料や作り方のコツまで詳細に記載されている。また、沼田や米田による当時の光秀周辺の状況についても記述があり、こちらは歴史書として文献に乏しい明智光秀の生涯を知る上で貴重な文献となっている。
他に記載されている、腹下しを止めたい時は手を洗ってこの薬を煎じて飲めという様な内容は、『針薬方』という書物が医学の秘術を書いてあるようなものではなく、「家庭の医学」的な内容であったことを端的に示している。事実、光秀が沼田に口伝し、『針薬方』に記載のある朝倉氏由来の「セイソ散」は傷を負った際に使う付薬として紹介されており、バショウの巻葉、スイカズラ、キハダ、ヤマモモの実と皮からなる薬とされる。バショウ、スイカズラ、ヤマモモにはタンニンという物質が多く含まれ、タンニンはタンパク質と強く結合し、傷口に被膜を作り、血管を収縮させることで止血する作用がある。スイカズラやヤマモモにはさらに、強い抗酸化力によって細菌の増殖や炎症を抑えるフラボノイドが含まれる。また、キハダの内皮にも抗菌・抗炎症作用のあるベルベリンが含まれている。このようにセイソ散を構成する4種類の生薬には止血や抗炎症、抗菌作用をもつ成分が多く含まれており、これら各生薬の薬効がセイソ散にもあると仮定すると、切り傷や打撲等の外傷に効果があったと考えられる。中世後期に成立した医学書「金瘡秘伝(きんそうひでん)」によると「深傷ニヨシ」と書かれている。武将が合戦などで刀傷や鉄砲傷を負った際、薬として用いていたのだろう。あくまで戦場での応急処置に効能があり、乱世である戦国時代に生まれた「金瘡」と呼ばれる、傷による緊急手術への知識をまとめた医療分野に通じていた程度の知識であった、と考えられる。
光秀の医学知識については負傷した家臣に宛てた手紙にも記述がある。以下の文書を御覧頂きたい。

疵御煩いの由、上京辺より申し越し候、如何にも御心許なく候、時分の儀候条、油断無く御養生簡要に候、今度丹波出勢の儀に付、いろいろと気遣いなど候てハ、養生の儀、心元無く候、随分の医師なとにも御逢候て、養よく候ハヽ、彼国在陣の内、待ち申すべく候(中略)
九月十八日 光秀(花押)
小畠左馬進殿

(訳)
疵に苦しんでおられるとのこと、京から申してきました。心配です。
もうじき冬ですのでしっかり養生してください。今度の丹波攻めでいろいろとりはからって頂いたら、養生が疎かになります。ちゃんとした医師に診てもらって、具合が良くなったら、私が丹波在陣の時にお会いしましょう。

これは丹波で戦っていた家臣の小畠に宛てた書状である。配下の怪我を気遣いつつ、「随分の医師」=しっかりした医者に診てもらえとアドヴァイスしていたほどだから、当時の医療技術からしても、光秀自身は大した技量は有していなかったことがわかるだろう。このように光秀の医学の知識を過大に評価はできないのだが、しかしのちに織田信長の家臣となり、台頭した要因に光秀の文官的な能力の高さがあったことを踏まえると、不十分なものとはいえ、彼が医学の知識を有していた事実は重要である。
(早島より引用)

光秀は何故、医学を身に着けたのだろうか。
時は乱世、群雄割拠の時代である。光秀も若い頃より戦乱に巻き込まれ数々の戦に参加してきた。戦場では多くの怪我人も出る。負傷兵は治癒すればまた戦える。そう思って光秀は医学を学び、戦に役立てようとしたのではないだろうか。
光秀は「乱世に必要だったから」医術を身に着けた。そう考えるのが自然ではないだろうか。当時はHIVウィルスも(おそらく)存在しないからHIVについて学ぶ必要は全くない。「治療」というものの根源は「怪我・病気」にある。怪我をしなければ、病気にならなければ治療は生まれないのである。無駄な治療は一つも存在しない。どんな類の医療であれ、苦しむ人を救うということに変わりはない。
光秀が医術を勉強したのはテストに合格するためでも、大学に入るためでも、医者として生計を立てるためでもない。多くの兵を束ねる戦国武将として必要であったから医術を身に着けたのである。そして、戦場では大掛かりな外科手術は出来ない。だからこそ光秀は勉学を初歩的な医術に留めたのではないだろうか。もし光秀が戦国武将ではなく、一介の町人であったのならば杉田玄白より以前に名医として名を馳せていたのかもしれない。明智光秀という人は戦闘、内政、外交、全てにおいて優秀な働きを見せていた。医術に集中していたのならば、そういった想像も決して的外れとは言えないのではないだろうか。

数々のイメージを持つ光秀に新たな「医師」という側面が加わった。
はたして明智光秀という人の真実が明らかになる日は来るのだろうか。
数々のフィクションを楽しみながら、明智光秀という存在に思いを馳せたいと思う。

参考文献
早島大祐著
明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか
出版社‏:‎NHK出版
発売日‏:‎2019/11/11

光秀公のまち 亀岡
https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/

歴史人 明智光秀は近江田中城を居城とした医者だった?
https://www.rekishijin.com/8955

「明智光秀も知っていた越前朝倉家の薬・セイソ散」
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