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「0」サッカーにおけるウノ・ゼロとショートケーキの苺

僕がサッカーを始めた頃―というと、もう20年を軽く超えるわけだけれど―、サッカーと言えばイタリアだった。1990年代後半から2000年初頭のことだ。

当時隆盛を極めたイタリアリーグ・セリエAの美学は「0」だったのである。

イタリアという一か国のリーグの中にバルセロナやレアル・マドリード、マンチェスター・シティに匹敵するチームが上位から中位までひしめいていた。だから、チャンピオンズリーグで優勝するよりセリエAでスクデットを獲得する方がステイタスだったのだ。

当時、BIG7と呼ばれるビッグクラブがあり、ユベントス、インテル・ミラノ、ACミラン、ローマ、ラツィオ、フィオレンティーナ、パルマだったと記憶している。

そのローマの優勝に貢献し、パルマとフィオレンティーナで10番を任された中田英寿はスーパースターだった。そして、その中田にポジションを譲らずスクデットをもぎ取った王子・トッティも当然すごい選手だった。そしてセリエAは贅沢だった。

そう、当時のセリエAは世界中から凄い選手を揃えていたにもかかわらず、やっているサッカーは非常に保守的だった。守備陣はガチガチに守り、サイドは上下動とセンタリング(今でいうクロス)に専念。
トップ下とツートップの3人の個人技頼みで点を取るという単調なサッカー。でも、そのトップ下とFWの有能さと破壊力が凄いから、個人プレーでゴールをもぎ取ってしまうのである。

そして、1点を取ったらガチガチに守りきりウノ・ゼロ(1-0)で勝つ。そんなサッカーだからディフェンダーにもスターが沢山いた。マルディーニ、ネスタのボールの奪い方はエレガントで、カンナバーロはセンターバックにしてバロンドールを獲得した。ただそれでも、花形と言えば前線の3人だった。

僕のいた少年団でも、トップ下はパスセンス抜群のT君。ツートップは、どこからドリブルを始めても全員交わして決めてしまうK君と、僕の幼馴染みで本当にゴールキーパーだったチームメートをシュートで骨折させ地元で伝説となったY君だった。システムも3-4-1-2で、どこの少年団もセリエAと同じ布陣だった。

そして、本家のセリエAは世界最高峰。ユーベならトップ下にジダンでFWはデルピエロとインザーギ、ミランならルイ・コスタの前にシェフチェンコとクレスポ、ローマはトッティ(控えに中田)がバティストゥータとデルベッキオを操っていた。

この前線3人の存在は、ショートケーキにおける苺の様な華やかさだった。てっぺんにある、まさにとっておきの格別感。その後、3-4-1-2は衰退し、主流は4-2-3-1になった。近年また、トップ下とツートップが採用されているけれど、今の選手に求められているものと昔のそれは違うから、サッカー界にも隔世の感がある。

それでもイタリアサッカーへの憧れはある。明らかにあの頃と違うと知りつつ、未だにセリエAや、アズーリの青や水色のユニフォームをTVで観る機会があれば心は踊る。幼少期の植え付けは根強いのである。

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