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CO、いつまでも慣れない

6年来の友人と初めて二人きりで出かけた
攻撃性の高い表現であることは確かなんだけど、私は彼に対して、同属意識のようなものを感じていた
なぜなら、彼も私も長い間交際相手がいないこと、またそれを共通のコミュニティ内で言及され、はぐらかした(ていた)経験があること、単独行動が得意なことなどいくつかの共通点があるから

そして、約束の数日前からタイミングがあればCOしてみようかと思っていた
社会学の造詣が深いこともあり、COに対して薄っぺらい共感で逃げるような人間ではないことを確信していた

彼の反応は、ほとんど私の予想と変わりなかった
まず、自分はそのことについて知っていい人間なのか聞いてきた
次に、私の以前書いたnoteの記事(https://note.com/clean_minnow966/n/n25e336d7e83c)を読んで、知らない単語やその分類について尋ね、おおよそ理解した時点で
「なんか少し申し訳ない気もするけど、ありがとう」(こんなニュアンスだったと思う)と言った
この段階で私はCOすると決め、実行してよかったと思えた
また重苦しさも、無知からくる軽薄さもない、私にとってほとんど理想的な対応で受け止めてくれた彼が有難かった
過去の話、困りごとや愚痴も、時々相槌を打ちながら黙って聞いてくれた

そして今度は、彼の話を聞いた
対話の中で得られた、彼の経験と、それに基づく価値観に触れて
’リスロマンティック’とか’アロマンティック’’アセクシャル’といった単語が浮かんできた
本人が自認していない以上、私は黙って話を聞くのみだったんだけど

彼がぽつりと「性交渉がなくても、生きていけると思う」みたいな発言をしたことが私にとってはまずまずの衝撃だった
私も賛成できる意見ではあるのだけれど、やはりアセクの構成比は女性が多くを占めているし、身体構造的にもシス男性が上の考え方に同意するのは簡単なことではないと思い込んでいたからだろう

また、長い間ホモソーシャル性の強いコミュニティで生活してきたから、異性愛主義の同調圧力がきついこともあったという趣旨の話もしていた
だからこそ、自分を守るためにも「一風変わったいいヤツ」を演じることでそういった同調圧力の緩衝材的な役割を果たしていたのかなとか
この世で異性愛主義にいまいち当事者意識を持てないまま生きていくうちに、自然とそうなったのかなとか
色々考えたけど、依然として黙って話を聞いた

思春期に抱いていた恋愛・性愛への興味関心はさまざまな経験をもとに具体性・実質性を帯び、やがて青年期の人格を構成する要素の一部になる
と思っている
アセクシャルを自認するまで膨大な情報を駆けずり回り、自己と向き合い続けたからか、関係を続けていくと、本当になんとなくだけどその人がニュートラルな価値観を保持しているのかどうかわかる気がする
そして少なくとも私の周囲で”そう”思える人は彼だけだと思う

この先自分に何かあったとき、明日が来るのが苦しいとき、頼り頼られできる存在がいればいいのにと言うと、
恋愛関係や婚姻関係といった強制力のある選択を選べない以上、ひとり天命を受け入れるしかないのかもしれないと思っていると言われ、
人間としての弱さと強さ、どちらも感じたし
同時に数年前から心の奥底にしまっていた
「30歳になって恋人がいなかったら結婚しよう」ならぬ、
「30歳になって恋人がいなかったら近くに住もう」はばらばらと散っていった
ごめんね

私を「人間であり、友人」とだけ認識しているような態度がとても心地いい
「身体性は付き合いの上で特に大きな問題じゃない」とも言っていた
COだけじゃなくて、もっと他愛のない話もしたし、死についても話した
本質的に他者と完全に分かり合えることはないけれど、変わらず仲良くしていきたいと思った


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