映画とか、自分とか

 せっかく自発的に文章を書いているのだから、何か映画以外のことについて書いてみたいと思うのだが、結局書きたいことが見つからないため、というより思ってることは誰かにしゃべっているため、やはり映画のことを書く。
ネタバレあり

「ある子供」 ダルデンヌ兄弟
2005年 ベルギー

あらすじ

大人になりきれないまま子供を産んでしまった若いカップルの運命を、厳しくも優しい眼差しで見つめる。20歳の青年ブリュノは定職にも就かず、ひったくりなどでその日暮らしの日々。そんなブリュノは、18歳の恋人ソニアが自分の子供を産んだというのに父親としての自覚を持つどころか関心を示そうとさえしない。そしてある時、ブリュノは深い考えもなしにその子供を売り捌いてしまうのだった...。
(Wikipediaより引用)

 ダルデンヌ兄弟の映画を鑑賞したのはこれが初めてであった。素晴らしかった。モラトリアムの崩壊を描きつつ、主人公の自意識の変化、価値の崩壊、新たなる再生が三幕構成を形造り、それがドキュメンタリー的に描かれている。映画の中に登場する「金」「子供」などの目に見える要素がラストには捨て去られ、「祈り」「愛」を顕在させたようなカットに変わる。この、身体から精神の移行がこの映画の核となっておりまさに「生命」のような映画であった。「金」「乳母車」は主人公の本質的なもののメタファーとして機能しており、例えば「乳母車」はそこに赤ん坊がいるとかいないとかに関わらず「父親」としての輪郭を際立たせるためものとして存在していた。そんな中で、金と乳母車の両方を捨て去った時、初めて主人公はその二つが保持していると思っていた価値の無力さに気がつき、自分が元々持っていたものの価値、つまりは愛に気がつき涙する。この涙は、人間本来の純粋な涙だった。
 男性が「父親」になるための儀式として、自意識の崩壊が必然なのではないか。愛し、愛されるという状態から他者を保護するという存在へ。子供から大人への変容であり、意識的に立場を逆転させる必要があるのではないか。崩壊には再生が相反して存在し、だから崩壊すらも必然性があるのだ。
 「ある子供」の「ある」は赤ん坊のことでは無く主人公のことだろう。子供が子供を育てるということを、ある種皮肉的に、しかしラストは祝祭として主人公を映し取っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?