フュリオサが英雄にならなかった理由〜「マッド・マックス:フュリオサ」感想
正直なことを言うと、「フュリオサ」鑑賞直後はこの映画に若干ノれなかった。「マッド・マックス 怒りのデスロード」で感じたあの連帯の物語としてのアツさがあまり感じられなかったからである。私の大好きな世紀末鬼強おばあちゃんこと鉄馬の女はほぼ出てこない(フュリオサの母メリー・ジャバサははちゃめちゃにカッコよかったが)女性含めた弱者たちはひたすら虐げられるだけ。ジャックとの関係も結局は異性愛中心主義に回収されてしまったように見えてなんだかなぁと思ってしまったのである。
それでも一晩寝てパンフを読んで、と過ごしていると、これほど緻密な前日譚作品は未だかつてなかったのではないかと考えを新たにした。
この映画は、ノレたらだめなのである。
「マッド・マックス 怒りのデスロード」を徹底的に連帯の物語として構築出来るように「マッド・マックス:フュリオサ」はあえてフュリオサを連帯ができなかった人物としているのだ。
フュリオサはこの映画のラストで大きな命題を課された。そして続編たる「マッド・マックス:フュリオサ」が提示した命題に「マッド・マックス 怒りのデスロード」は恐ろしく正確に応答しているのである。「これってこういうことだけど本当にそれでいいと思う?」という問いに「じゃあこうします。」と答えている。その話運びは実は清々しいほどに明確なのだ。
フュリオサが「強くある」が故の限界
ご存知の通りフュリオサは恐ろしいほど「強い女性」である。肉体的にも精神的にもタフで、卓越したサバイバル能力をもちイモータンの下で要職にまで上り詰めた実力者だ。「マッド・マックス:フュリオサ」は彼女がマックスと出会う前にどのような人生を送ってきたかが描かれている。
映画で描かれたフュリオサの半生を見てお気づきの方は多いだろう。フュリオサは実はあの世界の中で非常に恵まれた環境に育った少女だと。
「緑の地」で産まれ育ち、清浄な水と食料を摂っていた彼女の肉体は健康で、有毒物質と病が蔓延したあの世界では強力なアドバンテージである。誘拐されても母親が自分を迎えに来てくれて(あの世界で親にそれをしてもらえる子どもがどれだけいるだろう)ディメンタスに囲われてからもイモータンにワイブスにされかけた時も暴行を受けたり妊娠させられたりすることなくうまく逃げおおせることが出来た。「女性」という子どもを産む存在として負わされる理不尽をうまく回避できていたのである。
(ここで一点彼女は「女性」として承認されていた訳ではないということを追記しておきたい。彼女にとって自分の属性が露見されることはリスク以外の何者でもなかったのである。象徴的なのは彼女が少年だと偽るために声を出す方が出来なかったという描写である。マイノリティがマジョリティの中で働く時、マイノリティであるが故の困難はひたかくすしかなく「声」は奪われてしまうのである。)
あの世界で生き延び「緑の地」へ帰る準備をするためには権力者が作り上げた搾取と掠奪のゲームに適応しなければならない。道のりは過酷ではあったが、フュリオサはそれに運良く適応できるだけの条件が揃っていたのである。
しかし、適応できるということはイモータンたちに「都合の良い、使える」存在になっていくということでもある。自分の尊厳を奪い搾取しようとする構造にとっての復讐を果たすためには、その構造にとって「都合の良い」存在とならなければならないという矛盾。
労働問題として見るフュリオサ
このようなことは現代社会でも至る所で起こっている。例えばこんなことだ。
基本的に人間の肉体は「ブレる」ものである。その日の体調は毎日、人によっては毎時間変化し常に100%のパフォーマンスをすることなど不可能だ。体調を崩すこともあるし大きな病気になったり障がいを負うこともある。人生の中で自活できる時期以外は主に家族が育児や介護という形でその人のケアをしなければならない。
しかし現実は毎日安定したパフォーマンスを出せる者、つまり「適応した者」しか労働市場では評価されない。肉体の「ブレ」が大きい人間よりかは「ブレ」が少ない人間を、ケアをしなければいけない人を抱えている属性よりもそれを課されない属性を企業は好んで選び、それ以外の人は低賃金の労働に従事せざるをえない。人間は「ブレる」ものであるという前提が社会で共有されていないと、「ブレない」人しか生活の安定を得ることが出来ないのである。
では、「ブレる」属性であると見なされた人はどうするのか。「ブレない」属性並に、いやそれ以上に働きまくるしかない。起きている時間のほとんどを企業と社会に捧げるしかないのである。働きながら育児をしている女性が朝4時に起きありとあらゆる家事仕事をこなし午前1時に就寝する。これをロールモデルとして提示されたらほとんどの人は「こんなのできっこない」と両立を諦めてしまうだろう。
抑圧された人がその状況から抜け出そうと己を高めれば高めるほど、つまり強くなればなるほど今までの自分と同じように抑圧された人の心を折り可能性を閉ざしてしまう。そして、その人が頑張って生み出した利益を享受するのはその人を雇用している企業、間接的にはケア労働を家庭に押し付けている社会である。
誰のために闘う戦士となるか
「マッド・マックス:フュリオサ」でのフュリオサの敵役となるのは、彼女の母と唯一心を開いた戦友のジャックを惨殺したディメンタス将軍である。彼女とディメンタスとの決着が後半の山場となるのだが、この時フュリオサは結果的にイモータンの利になる行動をしているのである。イモータンから見れば、自分の領土を荒らし回るお邪魔虫のディメンタスをフュリオサが始末してくれるのなら自分は手を煩わせなくてすむのだから。まさに漁夫の利である。(ここでイモータンが自ら手を下さなかったのは自分の「格」を落としたくなかったからではないかとも思う。ディメンタスにガスタウンを占領されているイモータンとしては、一杯食わされた自分が格下を全力で潰しにかかるのはあまりしたくなかったのだろう。あの世界では舐められること、侮られることは死を意味する)
復讐は紛れもなく彼女の意思だった。しかし彼女が人生をかけて磨き上げ帰るための準備を整えていた力は、いつのまにかイモータンへの働きとして回収されてしまったのである。これは彼女があのシタデルの支配構造に組み込まれてしまっていることを示している。フュリオサと対峙したディメンタスが最期に言い放った「お前も俺と同じだ」という言葉はすでにイモータンの支配に雁字搦めにされている彼女の現状を言い当てていたのだ。いくら高潔な理想を掲げても、それが実行出来るほどの実力、権力をつけた時にはもう遅く、支配の構造の中に取り込まれて絶望するしかない。革命など起こせやしないのだからちっぽけな善性を守って傷つくなら、徹底的に露悪的に振る舞った方がまだ気が楽だ。ディメンタスはフュリオサのもう一つの未来だったのかもしれない。
弱き者たちの生存戦略
このままだと自分の往く道はイモータンの玉座、弱者を搾取し切り捨てる玉座に繋がっていると悟ったフュリオサはその問いに答えざるを得なくなってしまった。ならばどうしたか。
そう、その答えは全て「マッド・マックス 怒りのデスロード」にあるのである。
「デスロード」でフュリオサ一行がとった戦略は
教える
託す
修復する
協力する
といったものでイモータンたちの「奪う・占有する」という方法論とは真逆である。彼らは皆妊婦、老人、病者と「弱い」存在と見なされる属性である。抵抗のために、彼らは戦力も知識も所有物も全て分け合う。中でも印象的なのは負傷したフュリオサに対してマックスが輸血をしたシーンであろう。彼らは血液を介して「生命」さえシェアするのだ。
ここで一点特筆しておきたいのは、フュリオサもまた以前の彼女からは「弱く」なっているということである。
いやいや強いじゃん、とお思いだろうが彼女は左腕を無くしている。義手があれど彼女もある意味「障害を抱えている」と言えなくもない。緑の地で育まれた彼女の健康な体はあの時欠損してしまった訳である。しかし、その欠損こそが彼女とワイブスたちを繋げ強者と弱者のヒエラルキーからかの自由にしたのでないだろうか。
ここで象徴的なシーンを思い出したい。フュリオサがマックスの襲撃を受けるシーンである。着目したいのは、ここではフュリオサは義手を外しているという点である。フュリオサが緑の地へ帰還する際一緒に来たワイブス(子産み女たち)は、イモータンに囲われて生活してきたため自分を守ることが出来ない。車の運転もしたことがなく銃の扱いは弾丸の装填すらおぼつかない。正直いって序盤の彼女たちは足手まといですらあったように見える。しかし、義手という武装を解除していたフュリオサがマックスに飛びかかられた時、彼女たちはフュリオサを守ろうとしたのである。ある意味この瞬間は強いフュリオサも「障がい」を抱えた者として以前から見れば弱い存在だった。それでも力無きワイブスと弱くなった自分でも、協力すれば弱いままでも強者に対抗出来るのだ。フュリオサの無くした腕は弱さを抱えた他者と彼女を繋ぐためのものだったのである。
(これは想像だが、フュリオサの義手はつけ続けると「痛い」のではないだろうか。荒廃後の世界では人間工学のような補綴〈身体の欠損した部位の形態と機能を人工物で補うこと。〉器具に関する知識は失われ、装着者の負担よりも武器としての機能が優先されるため着け心地は良さそうにない。敵が周囲にいなかったり、精神的に打ちのめされたりした際彼女は義手を外しているため体にすっかり馴染んではいない気がする。前述のように弱さを弱さのまま抱えても補い合える協働関係が構築出来れば、無理に痛みを伴う義手をつけなくても平気になるのである。)
あなたと手を取り解き放つこと
このように「マッド・マックス:フュリオサ」はフュリオサが置かれた連帯未満の状況を描くことで「マッド・マックス 怒りのデスロード」に回答のバトンを渡す構成になっているのだ。
「マッド・マックス:フュリオサ」の後に「マッド・マックス 怒りのデスロード」を見ると、彼らの砂と血とガソリンに塗れた苦闘と清々しい解放を新たな気持ちでかんじられるのである。
改めて見ると「マッド・マックス 怒りのデスロード」は英雄を否定している物語なのだ。沸き立つ群衆の中でほとんどもみくちゃのようなフュリオサも、人波に消えていったマックスも、華々しい活躍をした英雄の姿とはほど遠かった。しかし彼らの満足げな表情は、「私たちがやり遂げたのだ。」という分かち難い絆と未来への希望を示している。
あなたと私が手をとることを阻んでいるものを、強者や大きな物語に惑わされず見定めること。そして弱さを押し隠さず分かち合いながら理不尽に抵抗するということ。
フュリオサはそんな物語なのである。
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