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小説無題#12ディープブルーの存在ついて

 田中が去った後、柳は三本目の煙草を吸った。とても不味い煙草だ。柳は自分でも予感した通り既にトラブルに巻き込まれつつあるようだ。柳はつけたばかりの煙草を灰皿に投げ喫煙所を後にした。相変わらず外は清々しく晴れ渡っていたが、今となってそれは嘘のように見える。ターポリンシートで作られた張りぼての青空を破くと、その向こう側に先の見えない闇が広がっている。そんな気がした。
 
 柳はゲートラウンジのソファに座ってしばらくじっと考え込んでいた。奥村弁護士に電話をかけようか悩んだ末、正直に相談することにした。電話は七回目のコールでようやく奥村弁護士は出る。取り込み中だったようで声の大きさと速さから忙しい様子が伝わって来た。
「どうしました?」
 奥村弁護士の声にはたった今、グラウンドを一周してきたかのような息遣いが感じられた。柳はこれから北海道へフライトするということ、昨日話した通り一週間で東京に戻ることを伝えた。
「そうですか、くれぐれもトラブルは起こさないで下さいね」
 奥村弁護士はこう続けた。
「時々僕はあなたのことが分からなくなる。もちろん信頼していますよ。でも唐突な北海道行きといい、あなたの行動が僕の想像を遥かに超えてくるんです。その行動力は素晴らしいですがあなたが何を考えているのかという霧が晴れないままもやもやするんです」
 その事に関して柳は何も言い返せなかった。当の柳自身でさえ自分が何を考えているのか分からなかったのだ。
「迷惑を掛けて本当に申し訳無い。俺は気持ちの切り替えが必要だと思ったんです」
「もちろんあなたには気分転換が必要です。ここ最近あなたは人が変わったように笑わなくなった。変な気を起こす前に医者で抗うつ剤を貰った方がいいと何度言おうとした事か。でもあなたはお医者さんだしその辺の知識は僕なんかより詳しいはずだから余計な事は言いまいと思ったんです」
 奥村弁護士の声は随分と穏やかになった。
「俺なんてやぶ医者も同然ですよ」
「ほらまた、自分を卑下するのはよして下さい」
 
 奥村弁護士と話すとなんだか心がほんの少し軽くなった気がした。柳は丁寧に礼を言い電話を切った。しかし最後までハンチング帽の男の事を言えないでいた。しかし彼をこの件に巻き込みたくは無い。自称田中の仲間たちが奥村弁護士を標的にするかもしれない。彼らは得体の知れないものなのだ。深い闇の底で息を潜め、鋭い爪で獲物を待ち受けている。そんなものの餌食になるのは柳一人で十分だ。
 辺りを見渡すとゲートラウンジには人が集まりつつあった。間もなく搭乗の時間だ。柳はショルダーバッグを掛け直し(ずっしりとした重みがちゃんとある)搭乗口に並んだ。
 
 無事に飛行機に乗り込み、飛行機は北海道へ向けて発進した。機内は空席が多く、隣の席は空いている。柳は窓際の席から滑走路内をぼんやり眺めていたのだが、隣りの駐機中の飛行機にせっせと荷物を積み込む航空職員に混じってロシア帽の男が立っている気がした。だがもちろん滑走路内には限られた職員しか立ち入る事が出来ない。アスファルトの照り返しが眩しいせいでそう錯覚したのだろうと柳は思い直した。
 
 飛行機が離陸し、機体の揺れが落ち着くと柳は眠気に襲われた。ここ半年ほどになるだろうか? いくら寝ても眠気が襲ってくる。確かに眠りが浅く夜中に目を覚ますことも度々あった。浅い眠りと関係あるかは分からないが三、四ヶ月に前湯船の中で目を覚ましたことがある。自宅のソファで寝ていたはずが気がついたら湯船に浸かっていた。その日は台風が首都圏を直撃した日だった。柳は一歩たりとも家を出ず、家の中で本を読んだり映画を見たりして過ごしていた。二本目の映画の中盤にさしかかった辺りで柳は酷い眠気に襲われた。まるで誰かがガレージのシャッターを降ろすかのように柳の瞼を閉じようとしている(二本目の映画がとてもつまらなかったのも大きな要因かもしれない)。兎にも角にも柳はしばらくの間眠気と戦ったが抵抗虚しく、いつの間にかソファで眠りに落ちていた。そして気づいた時には熱い湯をはった湯船に浸かっていたのだ。普通に考えれば寝ぼけた柳が湯を入れて自分で湯船に入ったのだが、ひとつ不可解な点があった。柳のその日身につけていた服が酷く汚れてれていたのだ。柳は風呂場を出て脱衣所でそれを発見した。脱ぎ捨てられた服はぼろ雑巾の様にぐっしょりと濡れたまま床に打ち捨てられていた。濡れた靴下の足跡が玄関まで続いていてその先に泥だらけの靴がひっくり返ったままになっている(玄関の鍵は掛かっていた)。誰かが眠っている柳を外に連れ出した後暑い風呂に入れてどこかへ行ったのだろうか? それとも夢遊病の様な状態の柳がちゃんと靴を履いて外に出た後、戻って風呂で身体を温めたのだろうか? いずれにせよ柳の理解を遥かに超えた出来事なのは間違い無かった。無意識の自分がどんな事をしているのか誰にも分かりっこない事だ。
 柳は座席のリクライニングを少し傾け目を瞑った。飛行機のエンジン音が耳鳴りの様に響き続けている。そこに空を裂く音が混じり絶望のデュエットとなって柳の心に共鳴する。そこへ深い眠りがやって来た。何を考える余地もなく意識が遠のいていく。多分気のせいなのだろうが深いまどろみのなか、ロシア帽の男が目の前にいた。どうやって飛行機の狭い座席の前に居るのかは定かでは無い。鷹のくちばしのような鉤鼻と深海の視線をこちらに向けてじっとしている。しかしながら柳の意識は深い海にゆっくりと沈んでいく。
 程なくして目の前は深い青になった。全くの無音だ。辺りを見回すが何かの目印になるようなものは無く、何処までもその青が続いているような気さえしてくる。
 そういえば美幸から話で聞いたことがある。ディープブルーと言われるものだ。深い海を下へ下へ潜ってゆくとやがて視界全体が濃い青に包まれるポイントがある。その場所には上下左右は無く時間も存在しないらしい。全ての物事が進行を止め、滞留する。加速する人間界とは裏腹に、この場所は太古の昔から自然の法則を守ってきた。変わりゆくものと変わらないもの。相反するふたつの世界は同じ地球上に存在するのだ。
 このディープブルーの存在について話してくれたのはほかでもない柳の妻、美幸だった。

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