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推し、燃ゆ(芥川賞を読む➂)

『推し、燃ゆ』 宇佐美りん (2020)

中高生から大学生にいたるまでの子たちと話をしていると、
「推し」の話になることがよくある。
 アイドルからYoutuberに至るまで、対象は誰であれ、この「推す」という行為が、自分の体験としてあったアイドルに憧れる気持ちとは、明確に異なるような気がしていた。その一端が、この『推し、燃ゆ』を読んで少し理解できた。

 推しの話をするときに、よく「リアコ」とか「がち恋」という言葉が出てくる。言葉が違う以上、ここには明確な線引きがあるのかもしれないが、その当事者ではない私にはよくわからない。たぶん「推しの対象にリアルな恋愛感情を持つ人たち」を意味するのだと私は認識している。そして、私に推すという行為を説明してくれた子たちは一様にして、この「リアコ」とか「がち恋」の人たちを薄く軽蔑しているように思う。
 私に説明できるくらいに自分の行為を言語化できる人たちは、だいたい自分の行為をある程度客観しできるのかもしれない。だからそういう態度になるのかもしれない。しかし、私にとっては、「推す」という行為について考える時、この「リアコ」とか「がち恋」の人たちの心性の方が、わかる気がするのだ。少なくとも私の時代の若者たちはみなそうだったのではないだろうかとすら思えてくる。

 自分の好きなあのアイドルが私の彼氏/彼女だったら

 その他愛もない妄想には双方向のまなざしがある。あの素晴らしいアイドルが彼氏/彼女ということは、その妄想の中では、自分もまた素晴らしいのだ。妄想の中で、自分が好きなアイドルを視れば、アイドルもまた自分を素晴らしいものとして眼差してくれる。意識化はされないかもしれないが、その妄想には自分をエンパワーする双方向のまなざしがある。

 しかし、私に推し活を語ってくれた子(特に女の子)たちは「リアコ」とか「がち恋」とか言われる、こういった推し方を否定する。時に、SNSによって発信が可能になった現代においては、推しの円滑な芸能活動を阻害する因子として嫌悪すらしている。この『推し、燃ゆ』に描かれた主人公もまた、そういった推し活をしている女の子の一人であるように思う。
 主人公は、アイドルを推すことによって、生きる力をもらっていると感じている。現実の生活において、常に軋轢をもたらしてしまう主人公は、推すことだけが生きることの全てだと言い切ってしまう。クリスチャンたちが聖書の言葉の一節一節を解釈していくように、推しのインタビューを解釈していく。それこそまるで信仰のように。しかし、信仰であるならなおさらローマ教皇が述べられたように、

「神の慈しみは、取り残された人々を見捨てない」

はずであり、そこにもまた双方向のまなざしはあるはずなのだ。しかし、主人公は、そんなことを信じてはいない。そこには自分から推しに対する一方向のまなざししか仮定しないし、それで十分だと感じている。

 私に推し活を説明してくれた女の子は「推しの左手のほくろになりたい」と言った。冗談ではあるが、そこには一片の真実があるように思う。そこには、例え妄想の中でも自意識が肥大することを許さない強迫的な禁欲性がある。ドライな見方をすれば、自分と推しの生活は全く断絶していて、自分は自分のエネルギー備給のために、推しという存在を利用しているということに、ささやかな罪悪感すら感じている。

うーん、色々書いてみたけれど、やっぱり私はわかっていない気がする。
自分の物差しでは測れない他者の気持を理解するというのは、やはり難しい。

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