1番目アタール、アタール・プリジオス(21)視えるもの
*
全身の震えがようやく収まってきた。
床にうつ伏して、あまりの眼の痛みに思わず知らず打ち付けていた額は切れて、血が床の木目に滴り落ちる。
胃液だろうか。
口に苦味があり、透明な水っぽいものを嘔吐した跡もある。
それをぼんやりと見つめながら、アリエルは肘を付いた状態で胸を上げ、顔をゆっくりともたげた。
「…アーリェ?」
目の前に、パルムの大きな身体を支える膝があり、心配そうな声で彼の名を呼ぶ。そっと肩に添えられた肉厚な手のひらの感触は柔らかく暖かかった。まだ震えて覚束ない彼の冷えた身体を優しく抱き起こしてくれる。
「ありがとう」と言おうとして、動かない唇に彼は自分が声も出せないほど消耗しているのだと理解せざるを得なかった。
「アリエルさん、よく耐えましたね…耐え切れずに亡くなる人もいるのですよ」
横で、ねぎらいの眼差しを向けてくる蒼い目の姉の涙ぐんだ綺麗な顔がぼやける。視界がぼやけている…どうやら、自分も涙を流したようだ。痛みの最中に泣いたのだろう。
……ん、なんだ?
妙な違和感に、胸が騒ぐ。
視界の端にチラリと何かが映り込んだ。不快なその何かの正体は、すぐには分からなかった。
「どうかしましたか…?」
ロエーヌの問いに、アリエルはどうにか動かした手の人差し指を天井に向けた。
「天井…ですか? 何か見えるのですか?」
「…く、ろい、あ、あく…りょう、みたい…な」
「悪霊?」
彼女の目には何も映っていない。だが、眼の力を得たであろうアリエルに視えるのであるから、実際にそれはいるのだろう。
「分かりました。悪魔祓いの呪を唱えましょう。イオク様もお願いします、あとパルムも言える範囲で言って下さい」
2人は頷いて、悪魔祓いの呪を唱えた。
「…あ、消え、た」
視界に、不快に映っていた影のような黒いものはのたうち回った後、完全に煙のように消失した。
……目蓋が重い。
アリエルは、意識を失った。
目が覚めると、室内は暗かった。
夜なのか?
起き上がろうとすると、額がひりひりと痛むのを感じて思わず「ウッ」と声を出してしまった。
「目覚めたか」
冷静な声に、アリエルは瞬きをして、首をそちらに向けた。
「…先生? ずっとその姿でいたの?」
アタール・プリジオスは『幽体』の姿で、彼の枕元に歩み寄ってきた。
「そうではない。昼間は、水晶玉の中で休んでいた。私にも、休息は必要だ」
「…じゃ、今は、夜なんだね」
「暮れたばかりだがな。今、ロエーヌとパルムは晩の食事をしている」
「そう…また、迷惑かけたみたいだね」
彼が溜息を吐くと、それを継ぐようにアタールは咳払いをして問いかけてきた。
「お前にとって、“迷惑”とは何だ? 人に心配をかけることか? 人に甘えることか?」
少年は目をぱちぱちさせて、アタールを見返す。
どう答えていいのか、分からない様子だった。
アタールは続ける。
「分からぬなら、教えてやろう。“迷惑”とは、人の嫌がることをすることだ。または人の正当な行動を邪魔することだ…心配をかけても、甘えても、それが即ち“迷惑”なのではない。相手が嫌がっていなければ、特に何も邪魔していなければ、それは“迷惑”ではないのだ」
「…“迷惑”の定義?」
「そうだ。つまり、お前はただ皆に心配された、甘えても問題ないとされた、それだけだ」
「“迷惑”なんかかけてないって、話?」
「そうだ」
「…はは、ずいぶんとお堅い言い方だったから、難しい話かと思ったよ」
アリエルはまた「ははは」と空笑いして、視線を落とした。
「そうか、俺、迷惑かけてなかったのか…良かった。でも……なんか厄介なことになった」
「何がだ?」
「……変なものが視えるようになった」
「霊視のことか。そのうち慣れる」
何でも無いことのように、アタールは言うが、彼は唇を少し噛んだ。
「できれば、視たくなかった」
「そうだろうが、お前も神官と司祭の子だ。そのようなものが視えてもおかしい人間ではないぞ」
「そうなんだろうけど…」
そんな話をしていると、夕食を済ませたロエーヌとパルムが部屋に戻ってきた。
「アーリェ! だ、だい、じょぶ?」
手に持っていたアリエルの夕食の皿をロエーヌに預け、パルムは足音をずんずん響かせて、アリエルに抱きついた。
「ああ。大丈夫、大丈夫だよ、パルムさん」
「アーリェ、アーリェ。よ、良かった、良かった、よ、良かったぁ…」
涙ぐんで喜んで、彼の頭をガシガシ撫でている。
呆れたように、それを見ていたロエーヌの後ろから、小柄な準司祭が声を発した。
「あの、皆様。少し、お話しても宜しいか」
「あ、はい」
ロエーヌが応じる。
「…勿論のこと、ここだけのお話ということにさせていただくが…私がここに赴任したのは、今より15年ほど前のこと。その年のちょうど今頃、1人のお若い高司祭様がお忍びでこの教会にお立ち寄りになったことがありましてな。まだ1歳になったばかりだとおっしゃるお子様をお抱えになって、ひどく青ざめたお顔だった。恐らく、十分な栄養を摂られていなかったものと思われるが…それはとりあえずおき、その高司祭様のお子様も、アリエル様と同じ『旭光の蒼星眼』…をお持ちだった。それで、お年頃も近く、稀な特殊眼。先程のロエーヌ様の様子から、もしやと…」
「…その司祭様は、名をおっしゃいましたか?」
「はい…確か、アペル家の端くれの者で、エクトラスと」
ロエーヌは、食事の皿だけはしっかりと持ったまま、目を見開き、アリエルとアタールの顔を交互に見つめる。
「アリエルさん!」
ロエーヌは、思わず叫んでいた。
《以下、つぶやき告知です↓》
よろしくお願いします😊
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?