見出し画像

1番目アタール、アタール・プリジオス(3) 逃亡者



 *


夜明けが近い…。

急がねばならない、とレミールは思った。
身一つで逃げ出したかったが、そばにまとわりつく『幽体』が口うるさく「巻物を忘れるな!」と叫ぶので、仕方なくその巻物だけは持ってきた。


東の空が白んできた。

まだ暗い西の空には月が遠く浮かぶ。

冷たい北風が頬を切るのを感じた。


「レミエラス。お前はあの男に“東へ行く”と言っておったな」


「ああ、そうだよ。天才先生、何か問題?」


「でもお前は『北』に行くのだな」


「先生がそう言ったんでしょ?」


「…あの男を信じてないのだな」


「べつに。あいつじゃなくたって、俺はそうするからね」



片方の口角だけ上げて、レミールは天才占星天文学者だという『幽体』のアタール・プリジオス博士に言う。

レミール・マジガこと、博士の198人目の弟子レミエラス・ブラグシャッド・アペル…は師の言葉どおり、北の方角に向かって、少しだけ早足に歩いていたが、ふと物陰に潜んで息を殺した。


「どうした…?」


「役人たちだ。東に向かっていった」


耳を澄ますと、ほんの微かに数人の規則正しい足音が聞こえ、東の方角へ遠ざかっていった。


「耳が良いな。それと…お前、ずいぶんと逃避行に慣れておるようだな」


天才アタールの声に答えることなく、弟子は明けの空の生む、鼠色の影から影へ素早く移動しながら、街の北端にある古い空き家に身を隠し、一息ついた。


「…まだ、北へ向かうのか? 先生」



朝の光が、空き家の窓から差し込む。
レミールは陽射しの当たらない場所を選び、そのそばの壁に寄りかかって座る。


「そうだ。まだ、北へ向かう。そこにはレッカスールという大寺院がある。そこの僧侶を頼ると良い」


「寺で、匿ってもらうわけね…」


「言っておくが、私は神など信じてはおらんからな。この世のすべては占星天文学で証明できるのだ」


「へえ…。俺も神様なんか、ちっとも信じてないんだよね」




少年に近い風体の『幽体』の色が、レミールの目にも薄くなっていく。
太陽の光の下では、目視が厳しくなるようだ。



「そろそろ元に戻る。お前、くれぐれも私をどこかに置いていくなよ…。僧侶の名は、ファンダミーア・ガロだ」



そう告げて、アタール・プリジオスは『幽体』になるときよりも、かなりあっさりと地味に『水晶玉』の姿に戻ってしまった。
移り変わる日向の最後の端にその身をゴロリと留め置き、一瞬だけきらりと光る。
それもやがて影の内へと入り、しんと静まる。

レミールは師である『水晶玉』を片手で雑に掴むと、巻物と同じく、前合わせの衣の襟の下に仕方なく抱え込んだ。少し冷たく、重い。


「…レッカスール大寺院の僧侶、ファンダミーア・ガロね」


レミールは独り呟いて、なんとなく笑う。


「やっぱりさァ、俺の人生、ツイてないよなぁ…拾ってくれた爺さんは実は犯罪者で、俺を置いて逃げるし…訳分からんものの弟子にはされるし。はたまた逃亡者の身分に逆戻りとは…まあ、今のところは無事だけど」


昨晩は一睡もできなかった。


色んなことが、急に起こった。


そして、腹が減ったが、何も食べるものがないことほど残念なことはない。
グーグー鳴る腹の虫を押さえて、レミールは立ち上がる。


せめて、水が欲しい…。


空き家の中を探し回ったが、食料はない。

ふーっと息を吐き、諦めて体力温存の道を選ぼうとしたとき、ふと割れた窓ガラスの外を見ると、庭に小さな石祠があった。その前に、誰かが供えた水とパンが一式、置いてある。


「…天の恵みか?」


レミールは這いながら、庭まで出ると、その場で水を飲み干し、パンを頂戴して引き上げた。

それと入れ替わるように人の気配がして、1人の少女が水を入れたポットとパンを手に現れた。

「わあ! お水とパンが無いわ! 愛神アラムさまが参られたのだわ! 私はカーネアルさまと結ばれるわ!」

空になったカップとお皿を見つけた少女はパァーっと明るい顔になり喜ぶ。空のカップに水を注ぎ、お皿にまたパンを置く。

「感謝します。こちらは御礼です」と祠に頭を下げ、踵を返して、去っていった。


「…なんだあれ」


少し湿ったパンを頬張り、レミールは窓越しに少女の様子を眺めながら唇を歪める。


「そろそろ出ないとな」


眠気が襲い、ぐらりと倒れそうになる。

が、寺院の朝夜は早い。

ここで眠ってしまったら、起きた時にはたぶんもう日が落ちて、閉門しているだろう。

レミールは自分を叱咤して、空き家を出ると、目をぎらつかせながら、再び更に北にあるレッカスール大寺院を目指して進んだ。


「アラムさま、ありがとな」


もちろん、あの少女の供えてくれた『神への御礼』も忘れない。

彼はカップの水をあおり、袖口で口元を拭うと、少女の置いた新しいパンも抜かり無く拝領し、服の袂に入れた。




人影もまばらな北の街のさらに北辺に、その寺院はあった。


「うっわ〜! 何が『大寺院』だよ! なんてボロくてショボい寺!」


思わず叫んでしまい、彼はハッとして口を押さえる。

たどり着いたレッカスール大寺院は、荘厳とした由緒ある風貌とは程遠く、寂れて老朽化が激しく廃れていく途上にある古寺といえた。


「どちらさまですか?」


それでも、ギシギシ鳴る門を開け、正面の扉を叩くと中から女の声がして、そっと顔を出す。


「あ、俺…レミール・マジガと言いまして、あのファンダミーア・ガロさんは?」


「ガロは、私ですが」


僧侶の女は、にこりと口元に妖艶な微笑みを浮かべ、静かに答えた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?