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I GONZAGA E GLI EBREI(訳: ゴンザーガ家とユダヤ人)の展示を鑑賞する

とある6月の週末、MantovaというLombardia州の東側の町へ行った。目的は現在開催中の「I GONZAGA E GLI EBREI(訳: ゴンザーガ家とユダヤ人)」の鑑賞である。

展示の部屋の入口


※展示の趣旨

ゴンザーガ家は言わずと知れたヨーロッパで最も有名な侯爵家のひとつで、Luigi GonzagaからFerdinando Carloまで続く14世紀から18世紀にかけてのイタリアとヨーロッパの歴史の主人公ともなった有名な家系である。
今回の展示は、ゴンザーガ公文書館とMantovaのユダヤ人共同体公文書館に所蔵されている古文書や文書を丹念に調査することで浮かび上がった、14世紀末から市に存在したユダヤ人の歴史と、1328年から1708年まで支配していたゴンザーガ公国の歴史との間の深い相互関係を時系列的にパネルで紹介したものとなっている。

シマ子のNoteでMantovaの展示を紹介するのは初なので、展示へ移る前に(人気のないユダヤですし💦)まずはMantovaについて少し触れておこうと思う。

※Mantovaについて ①地理とアート

Mantovaは三方を人工湖に囲まれた、中心街がユネスコ世界遺産に登録されている町だ。Lombardia州にありながら、南東にあるVenetoの雰囲気を持っており(ミラノと比較するからかもしれないが、人がかなりゆっくりしている)、同じ州にありながら、ミラノからは列車で片道2時間とかなり遠いのと、モダンアートよりも古典派の展示が多いため、個人的にはたまに行く程度だ。
そして水に囲まれているため、6月にもなると湿度が酷く、不快指数がぐんと上がる。
ただ、毎年9月(?)に本の大きなイベントがあり、数年前に村上春樹氏が来場したこともあり(私は小学生時代からハルキストだ)、その頃から本格的に注目するようになった。しかし展示の回転率の低さから、梯子ギャラリーをモットーとしているシマ子としては、Torinoへ行く回数がMantovaよりも圧倒的に多いのには変わりない。

ネットから取ったLombardiaの地図


※Mantovaについて ②特産

有名かつ代表的な食べ物として、カボチャ(他にも有名な町が幾つかあるのと、日本のカボチャの方が断然美味しいので、特におすすめはしない)とSbrisolonaというトウモロコシの粉とアーモンドのお菓子が挙げられるだろう。
日本と一緒で、イタリアにも割と各地に色々と美味しい食べ物があるので、もし旅をする機会があれば色々試してみては、と思う。

ネットから取ったSbrisolona
これはさすがに作る気にはなれないので、Mantovaに行く度に小さいサイズを買っています😉


前置きが長くなってしまったが、観光案内なので、許容範囲内としよう。

さて、この展示は、ユネスコ世界遺産の登録地区にある王宮美術館内の一角で行われており、鑑賞者の多くは王宮見学が目的だと思う。私も、初めて訪れた際にはそれが最大の目的だったが、複数回訪れた今でも、実に見どころに溢れた建物だと思うので、もしMantovaを訪れる機会がある方は、是非訪問いただきたいと思う。

下に王宮のサイトのリンクを貼るので、興味のある方はご覧ください。

https://mantovaducale.beniculturali.it/it/


※展示について

いよいよ本題に移ろう。
正直言って、パネルがずらっと並んでいるだけで、非常に素っ気ない、鑑賞されることが期待されていない展示だった。
各パネルの下に説明文が載っていたので、そこからゴンザーガ家というよりもユダヤに関する部分をメインで抽出・お届けしたいと思う。

※パネル①

ユダヤ人移民の流れ地図

15世紀、迫害・追放されたユダヤ人の2つの移動の流れがポー渓谷地域に集中した。一つはスペインからフランスのプロヴァンス地方を経由する流れ、もう一つはドイツからで、15世紀末にかけてナポリ王国と教会国家からイタリア北部に向かう第三の流れが加わった。
ドイツ系(アシュケナジム)は特に北東部で歓待を受けた。北西部はスペイン系(セファルディム)が多数を占め、イタリア系の多くはFerraraのエステ領主やMantovaのゴンザーガ領主の土地に居住を求めた。
これらのユダヤ人難民の中には、地味な銀行家や小額の金を利子付きで貸す家族もいた。高利貸しに対する教会の立場は当初否定的だったが、キリスト教徒住民の実際の信用ニーズが高まって初めて、ユダヤ人の間では小額を貸すことを認める立場に変わったそうだ。

ちなみに以前、シマ子がユダヤに興味を抱いたのは、建築や装飾からだった旨触れたが(下の記事参照)、シナゴーグで語ると、アシュケナジムは非常に簡素、セファルディムは豪華なのが特徴だ。またイタリア系は農民の出が多く、インテリの多いアシュケナジム(アインシュタイン、スピルバーグ監督やウディ・アレンはこの系統)とはかなりタイプが異なる、という説明もかつて受けている。


※パネル②

上: 5代目Gianfrancesco
下: 6代目 Ludovico II

15~16世紀にかけて、Mantovaとその周辺に定住したユダヤ人に対するゴンザーガ家の権力者の態度は無関心な寛容さだった。特別な勅令により、領内で生活・活動するユダヤ人に与えられた特権は規定され、時を経て再確認されたが、職人や商人はギルドに登録し、"paratico(※)"と呼ばれる相対税を支払う義務が免除された。
利子をつけて金を貸すユダヤ人銀行家に対しては、ゴンザーガ家はかなり複雑な態度をとった。実際、高利貸しが禁止されたこともあったが、その代わりに貸付利息の上限が25%に設定・許可された。

※paraticoの語源→ギルドが市の行事でパレード(parata)をしていたことからこう呼ばれるようになった。

※パネル③

上: 7代目 Federico I
下: 8代目 Francesco II

15世紀、ユダヤ人銀行家は共同体のリーダーであり、小規模で明確なグループを構成していた。 彼らの社会はもともと私的なものであったため、文書や帳簿は銀行家の元に保管され、公文書館や特別な場所を必要としなかった。
1511年、大学当局がユダヤ人を公式に承認した。この変化に伴い、ユダヤ人共同体の内部的な関係と、大学と市当局との間の外部的な関係の両方に関する全ての文書は、必然的に高い価値を持つようになり、その正確な保管が非常に重要になった。

※パネル④

9代目 Federico II

16世紀、Mantovaでは貸金業がピークに達し、市内や近隣の町にユダヤ人銀行が増え、繁栄した。しかし銀行の数が増えるにつれ、銀行間の競争も激化し、中には法律で定められた利率よりも低い利率で資金を貸し付ける銀行も組織された。

※パネル⑤

10代目 Francesco III

Federico公爵の跡継ぎの息子Francescoが幼齢のため、母親と枢機卿の叔父が、彼が18歳になるまで摂政を務めた。 統治時代には金利が高すぎると考え、1547年にユダヤ銀行を廃止すると言ったが、キリスト教の精神が現実と市民の要求に道を譲らねばならなかった。 公爵は1550年、結婚式の数か月前に狩猟中の事故で亡くなった。母と叔父は、弟Gugliermoが1558年に成人するまで摂政を務め続けた。
この年に反宗教改革が始まり、ユダヤ人に対する教会の態度が強化された。ゲットーはさまざまな都市で発生し、多くのユダヤ人コミュニティが追放により排除された。

※パネル⑥

11代目 Gugliermo

権力がGugliermoの手に渡った時、ユダヤ人に対する教会の指示はより厳格に遵守されるようになった。しかし公爵は、宗教的慣習を厳重に守りつつも、熟練した統治者でもあった。彼は正統性を持ちながらも法と秩序を重んじ、キリスト教徒によるユダヤ人への嫌がらせを禁止する約束手形を多く発行した。
1553年、教皇Giulioは、ユダヤ文化の最も重要な著作Talmudを公に燃やす命令を出した。この知的緊張の中で、カバラ主義出版の異例のブームが起こり、ユダヤ文学と典礼の重要な作品がMantovaの印刷所から出版された。

カバラ
ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想。ユダヤのラビたちによる、キリスト教でいう神智学であり、中世後期、ルネサンスのキリスト教神学者に強い影響を及ぼした。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘される。

Wikipediaより

※パネル⑦

12代目 Vincenzo I

17 世紀初頭、Vincenzo IはClemente VIII教皇の切実な要求に応じ、ユダヤ人を他のキリスト教徒から十分に隔離するためのゲットー設立を決定した。これは他の都市で既に取り組み、解決されたプロジェクトで、それには多くの困難と巨額の費用がかかった。ゲットーの創設には、長い間主にユダヤ人が居住していた市街地が優先された。 1602年、公爵とユダヤ人コミュニティは、Mantovaゲットーの創設プロジェクトについての議論を開始した。

※パネル⑧

13代目 Francesco IV

1612年2月24日の発令
・ユダヤ人は、像や十字架を掲げた行列が通りを通る時、敬虔な敬意を払いたくなければ25scudiを払うか、縄で縛られる罰則のもと、敬遠して追い返さなければならない。
・ユダヤ人は、病人に聖骸布が運ばれる合図の鐘の音が聞こえたら、道を引き返すか、どこかの家や店の中に身を隠し、敬虔でなかったというスキャンダルにならないようにしなければならない。
・ユダヤ人はキリスト教徒と同じ屋根の下に住んではならず、彼らと飲食してはならない。
・教会が命じた聖なる日には、ユダヤ人は働いても店を開けてもならない。
これらの日にキリスト教徒がユダヤ人から物を売買することは許されない。
・すべてのユダヤ人は帽子にオレンジ色のリボンをつけなければならない、
ただし旅行中の場合は免除される。
(以下省略)

Mantovaのユダヤ人共同体公文書館の資料より

ユダヤ人のゲットーへの移動とキリスト教徒のゲットーからの退去には多くの困難があり、多大な費用を投じて、1612年初頭に完了するまで約2年を要した。

この時点で、「罰金か、体罰か」「隠れるか、離れるか」がユダヤの使命であるような感があり、その実がどれほど厳しかったのかはわかりかねるが、ホロコーストの予兆が垣間見える気がしてならない。

※パネル⑨

14代目 Ferdinando

ルネサンス期には、ユダヤ人の科学者や発明家がイタリアの王侯の宮廷に頻繁に登場し、しばしば熱望された。ゴンザーガの宮廷に招かれたのは、厳密な科学技術や手先の器用さでよく知られていたAbramo Colorni(1544-1599)だった。特にColorniは、湿った土から塩硝を抽出する特別なシステムの知識を誇っていた。塩硝の利用可能性の高まりにより、当時製造されていた火薬の爆発力が増すことになった。

※パネル⑩

15代目 Vincenzo II

Fiera delle Grazieは、Mantova県の某集落で毎年開催されるイベントである。
8月15日のマリアの被昇天を祝うために、1399年にMantovaの民衆の隊長によって建てられた聖母マリアの祠の前で開催されたのが始まりだ。 17世紀のMantovaのユダヤ人たちは、教会の庭に28の露店を借り、様々な品物を売買して縁日に参加していた。

※パネル⑪

17代目 Carlo I

Vincenzo IIの死後、2人の傍系王子が公爵位を要求した。皇帝Ferdinandoは、この係争地を自らの領地とみなし、7万人の軍隊をイタリアに派遣して領有権を主張した。1630年7月18日、Mantovaはドイツ帝国軍に占領され、帝国軍は特にゲットーを荒らし回った。戦争の損害に加え、予期せぬ深刻なペストの流行がMantovaの人口を壊滅させた。Mantovaのユダヤ人は強制的に追放され、その年の暮れに漸く、半分破壊されたゲットーに戻った。かなり縮小された地区で、ユダヤ人たちは自分たちの共同体組織を復活させ始めた。

※パネル⑫

19代目 Carlo II

17世紀後半、フランスとオーストリアはLombardiaへの影響力を強めようとした。フランスはMonferrato公国に強い圧力をかけることで、フランス系のNevers家を利用しようとした。ハプスブルク家側はゴンザーガ家との婚姻関係を通じて、その目的を実現しようとした。 最後の2人の公爵は権力争いの中で無防備であり、さらに政治的、行政的、軍事的才能に欠けていたため、Mantovaのゴンザーガの終焉を早めることになった。

※パネル⑬

20代目 Ferdinando Carlo

1965年、Ferdinando Carloは政治的陰謀に巻き込まれ、皇帝を裏切ってフランスと秘密同盟条約を結んだ。これにより帝国軍が公国に介入した。1707年初めにミラノで調印されたフランスとオーストリアの間の条約で、Mantovaはハプスブルク帝国に併合され、MonferratoはSavoia公の手に渡り、ゴンザーガ家の最後の一人は退位してこの世を去った。

ということで、5000文字を超える長文により、ゴンザーガ家の終焉までたどり着いたが、最後は明るく美しい風景でも眺めていただこう、ということで、王宮の中庭の写真を載せておこうと思う。

王宮の中庭


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