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ディベートの記憶~一方的な押し付けを拒否する思考

今日は中学校の頃の思い出を綴ろうと思う。
私は中学校までは、割りと真面目に授業に参加していた。ちゃんと時間にいって、席に大人しく座って、先生の言うことに従った。

中一の時、社会科の授業で、沖縄の普天間基地の話題になった。
教師は、普天間基地の近くの学校では、こうやって授業中にも飛行機の騒音があって、まともに授業すらできない。危険だ。だから悪だと言った。

普天間基地の事はニュースでもやっていた。
そしてそのニュースをみながら、父親が何やら文句を言っていた(父親は何もかもに文句を言う人だった)。なんとなくその記憶があり、そうやって、普天間基地の事を悪だと、おかしいと、授業を使って一方的に思考を強制されるのはおかしいんじゃないか?と違和感を持った。

そして、授業のルールに乗っ取り、挙手をして、指されて、教師に私の発言が許可された。
当時の私は、別に歴史マニアでも、保守思想の勉強を自分でしてる訳でもない、普通の中一だ。
だから具体的に根拠を明示できるわけでもないけど(今だったら隣国からの軍事脅威への抑止力とハッキリいえるけど)、なんか違和感がある、と思った。
そうやって危険という1面だけを取り上げて、悪とするのはよくないんじゃないか?という違和感だけだ。

挙手して、発言を許された私は
「沖縄の基地に、土地を貸して、その収入で生活してる人が居るって話を聞くし、必ずしも悪なのではないのではないか?」
と発言した。

そうしたら、社会科の教師はそれを取り上げて、私を前に座らせて、即席のディベートをさせた。
私はその授業が、ディベートになるなんて思っても居ないし、ディベートで闘うための情報の準備すらしてきてない。
持っていたのは、一方的に断定することだけの違和感だ。
その後の事はほとんど記憶にないんだけど、フルボッコにされたんだと思う。
だって準備もしてきてないのに、なにも言えることなんてないじゃないか。

その後、中二か、三の時に(記憶が定かでない)ディベートをする機会が1回だけあった。

「死刑制度に反対か?賛成か?」

という内容で、私は賛成派として、登壇する事になった。
図書室で、徹底的に準備をした。
ディベートは、それが正しいか?正しくないか?って事じゃなくて、その意見を正当性を持って主張できるか?根拠を持って主張できるか?聴者に勝ち負けを判定させるものなので、私は賛成派なのだから、勝てる要素を用意して、ディベートに挑んだ。

実際の心境は、死刑制度が本当に正しいのか?正しくないのか?なんて、今でもわからない。法の下の平等の元であっても、死刑として、命を公的機関が命を奪うことが正しいか、正しくないか?なんて、結論がでない。
もし裁判内容に誤りがあって、それを根拠に死刑とされたら、取り返しがつかない。
だから、無期懲役以外にも、終身刑とか、懲役300年とか、選択肢が増えてもいいんじゃないか?と思っている。
無期懲役は終身刑ではない。
長生きすれば、出てくることだって可能だ。
だから、絶対世の中に放流しない、とする、終身刑とか、人間の寿命を基準とせず、罪の重さを評価して、罪人の余命とか関係なく、懲役300年とかにする方法だってある。
有期刑→無期懲役(終身刑ではなく期間の明示のない有期刑)→死刑
しか選択肢がないのは、おかしいと思う。

もし私が、死刑制度反対側でディベートに出るなら、そういう主張で、話を運ぶ算段をして、その根拠を探して、その上で倫理面での主張をして、だから死刑制度は否として闘うだろう。

でも、その時私は死刑制度賛成側として、登壇が決まったのだ。
私たちチームは、死刑制度賛成の根拠を「社会への抑止力」と話を持っていくことで、賛成派として勝とうと、準備をした。
死刑制度を無くした国での、犯罪率の増加の資料とか、無くしたことへの後悔の弁などの資料を集めてディベートに挑んだ。

結果としては、圧倒的勝利だった。
「社会への抑止力となるから死刑制度は必要だ」と最初に明示する事で、死刑制度が正しいか?正ししくないか?という議論ではなく、
「死刑制度が社会への抑止力となるか?ならないか?」に、論点をすり替えることに成功した。(当時は論点をすり替えたとは思ってなかったけど、今振り返るとそうだなあと思う)

そういう風に話を運べたら、もう負ける訳でもない。だってその話題なら、いっぱい根拠用意してるもん。
反対側の根拠は薄いもので、じゃあ死刑制度を無くしたこの国の法律家が「無くさなければ良かった」って言ってるのはなんでなんだ?
で、トドメを指して、反対側にぐうの音も出ないほど黙らせた。

そして、3人づつ前に出ていて、他のクラスメイトが、そのディベートを聞いて、支持できる方への挙手をする事で、勝ち負けを決めた。
9割型のクラスメイトが、賛成に挙手してくれたけど、数人は反対に挙手した。
その時は、なんで100%じゃないねん!
と思ったけど、圧倒的に相手を打ち負かした私たちに、嫌悪感を持つ人は居て、その人達に私たちの事支持することを強制する事はできない。

それは内容の善し悪しではなく、やり取りに対する嫌悪感だと思う。
その経験を持って、表現の方法の仕方で、同じ内容でも、相手に受け入れられるか、拒絶されるかは変化があると学んだ。
伝える内容が幾ら正当性があるものでも、伝え方を誤れば伝わらないのだ、と学んだ。

私が学生時代にディベートを経験したのはその2回だけだ。
ディベートって、社会人になったら、裁判なんだろうけどさ。
私は法律家になるほどの頭を持ってないから、職業としては、関係ないけど。
でもまあ、プレゼンをして、相手を納得させるとかもディベートといえるかな。そしたら何回かは機会があったなあ。

その話はまた思い出した時に。
今日はちょっと短いけど(2400字、私は1記事4000↑を最低条件にしてるから、ノルマクリアならずなんだけど)このあたりで…。

今日も皆さまにとって良き日でありまふように。

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