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式子内親王 桜の歌

花はちりてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞ降る

新古今和歌集

「さくらの花は散ってしまい、桜色があるというわけでもない空を、なにを眺めるというのでもなくじっと眺めていると、そのなにもない空に春雨が降っている」

平井敬子さんによる現代語訳ではそう書かれています。
また馬場あき子さんの著作からは、「式子内親王が父親の後白河より伝領して晩年を過ごした大炊御門殿には巨大な八重桜の古木があった」という。
(となると、先日の私の早春の歌の解釈は間違えになるのですが・汗)
また、馬場さんはこうも書いておられます。
「式子における<眺め>の姿勢は、そうした見る人としての、頑なな非力への固執でもあった」

式子内親王の歌の特色のひとつに、この「<眺め>の姿勢」は、必ず入ってくると思います。

桜が散って、まだ若い力を鼓舞するような新緑も芽吹いていないころ。ただ、昨日まであった桜色だけが消されてしまった世界。
先日、高遠に桜を見に行ったのですが、古木に咲く桜というのは、もう世界中を桜色に染め上げる力がありますね。その世界を何日も堪能して、散っていく花びらも眺めつくして、幾日も酔うような日を過ごしたあとの、「その色」が無くなってしまった「今」。
どこか脱力したような、長い興奮がいきなり去ってしまったかのような。魂が抜けたような身体で空を眺めていると、雨が降ってくるのです。

雨も、桜のない世界を嘆いているのかもしれない。
雨が、この身体を落ち着かせ、また現世に返してくれるかもしれない。
花が散ったあとには、雨が一番似つかわしいのかもしれない……。

そんなことを思う、大好きな一首です。

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