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#1 ギリシャ(オリンポス山)

留学。いつかはしてみたいとずっとあこがれはあったが、してみたら大したことはない。結局どこにいても自分は自分でしかない。

わかってはいたけれど、どこにいるかよりも、どういう動機で、どういう姿勢で物事に取り組むかのほうが肝要である。

三十を超えたにもかかわらず、いまだに迷走していることが多い一方で、真の自分の限界と死に物狂いになれば外せるリミッターがようやくわかってきた気がする(確かに三十にして立てはじめたのかも)。

ところで、先日休暇を利用してオリンポス山(2918m、ギリシャ最高峰)へ登った際、想定していた以上に危険で、久々に死を間近に感じた。山肌を滑ったら、軽く数百メートルは転落し、簡単に死ぬ。

靴底がつるつるになったトレッキングシューズ、乾燥及び風化が進んだことにより滑りやすくなった岩肌、テント用具を含む約15㎏のバックパック、どれも死への恐怖を増長させた。

「死ぬ」や「死ぬのは怖くない」と人は簡単に口にするが、本当に死ぬ瞬間に懼れを抱かない人間などいるだろうか。少なくとも漫画の世界でしか見たことがない(Dの意思)。

他方で、「今、ここにいる瞬間」を大切に生きることの意味の重要性をわかっている人はそれなりにいる中で、はたしてどれだけの人間が一所懸命に汗をかけているだろうか。少なくとも私はできていないと感じるときは多い。

生きる意味を探す中で、どこか遠くへ、見も知らないところへと誘われている一方で、訪れる場所が多くなるたびに、見知らぬところが少なくなっていく、もしくはその錯覚に陥る。

実のところは知らないにもかかわらず、過去の経験により脳内で新たな経験の印象を補完しすぎてしまう。人生は旅のようなものだ、とよく言うが、だんだんと新たな経験、正確には我々の脳にとっての新規性が落ちていくことで、未知への期待値が減衰していくところにも所以しているのかなと。

それよりかは、大切な人と住み慣れた場所で一般的な暮らしをしているほうが、身体的な負荷が小さい、かつ幸せを感じる時間も長いのかもしれない。

とはいえ、未だ見ぬ何かを、刹那的な何かを求めている自分がいることも認識はしているし、悪いことだとは思わない。むしろ、もがいている自分のほうが人間らしくて、自分自身に親しみを感じることさえある。

何が正解かわからないから生きながら答えを探している。その答えが最後までわからないとしても、少しでもそこに近づくために、みな苦しみもがきながら日々を必死に生きているのだと。

特定の誰かに読んでもらいたいというわけではないが、自身の思考の整理をするついでに、見も知らない誰かと思考だけで繋がりたいなと。


オリンポス山頂からの景色


テサロニケの夕日

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