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昔聴いた音楽のこと3(音楽と言葉)

私は、学年の初めに教科書が配られると、国語の教科書だけすぐ読んでしまうような子供だった。ただ、読書量が多かったわけでは決してなく、小学生のころはせいぜい図鑑と「科学と学習」くらいしか読んでいなかった。だから、言葉に興味を持つようになったのは、小学校高学年から聴き始めた音楽、特にフォークの影響が大きかったように思う。

吉田拓郎は表現がストレートでわかりやすかった。吉田拓郎も当時は20代だったはずだから、よくこんな歌詞を書けるなと思う。暫くは全く聴いていなかったが、今改めて聴いてみると、歌詞の内容が実感として湧いてくるものが多い。父が「陽水はよくわからんが、拓郎はいいな」と言っていたことを思い出す。

これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか
信じられるものがあったとしても信じないそぶり
(イメージの唄 吉田拓郎)
みんなみんないいやつばかりだと おせじを使うのもおっくうになり
なかにはいやなやつだっているんだよと大声で叫ぶほどの勇気もなし
(ペニーレーンでバーボンを 吉田拓郎)

井上陽水は全く別の世界で、自分では全く想像できない言葉の組み合わせが新鮮だった。シュールで隠喩的な表現も多かったから、逆に想像力をかきたてられたのかもしれない。ただ、陽水の詞で子供のころ好きだったのは、モノクロの風景写真のようなものが多かったような気がする。吉田拓郎と違い、井上陽水は子供のころから今まで、たまにではあるがずっと聴き続けてきている。

季節はずれなのは ホトトギス
誰が笑ってるも 知らぬまま
喉に血吐見せて 狂い鳴く
あわれ あわれ ホトトギス
もうすぐだね 君の家まで
(帰郷(危篤電報を受け取って) 井上陽水)

あやとり糸はむかし 切れたままなのに
想いつづけてみれば 心がやすまる
もう すべて終わったのに みんな みんな 終わったのに
(おやすみ 井上陽水)

小椋佳を聴き始めたのは確か小5か小6くらいだったのではないかと記憶している。小椋佳の歌詞は本当に美しい。日本語の響きの美しさを強く思うようになったのは、間違いなく彼の歌を聴いてからである。その前から聴いていた井上陽水の歌の中にも、「白い一日」や「坂道」など、よく見ると作詞が小椋佳だったものもあった。書初めの宿題で「夢追い人」と書いて、一人浮いていたことを思い出した。

夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく長い白い壁
足跡も影も残さないで
たどりつけない山の中へ
続いているものなのです
(俺たちの旅 小椋佳)

真っ白な陶磁器を
眺めてはあきもせず
かといってふれもせず
そんな風に君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく
(白い一日 作詞 小椋佳)

歌に癒されたり、鼓舞されたりするのは今も昔も変わりない。

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