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ホメロスの神は本当に神なのか

はじめに 

空を見上げると星が広がっていますね。都会だと周りが明るいのでなかなか見えないかもしれませんが、山梨に住む友人はペルセウス座流星群をこの前見たとおしえてくれました。ところで「ペルセウス」はギリシア神話の登場する英雄の名前です。彼はダナエーという人間の女性の子どもなのですが、そのダナエーのところへゼウス(ギリシアの神さまたちの中で一番強い神)が黄金の雨に変身して訪れて夜をともにしたことによって生まれた、と神話は語ります。このような色彩豊かなお話に富むギリシア神話について、いくつかのエピソードや神話に登場する名前などを既に知っている人も多いでしょう。例えばさっきのダナエーとゼウスの神話は様々な画家が描いているので、美術に興味がある人は絵によって知っているかもしれませんし、そのほか様々な文学や芸術でギリシア神話が顔を出します。ではそれらの元となった「原典」とはなんなのでしょうか。例えば、同じく頻繁に絵画の題材となるキリスト教だと『聖書』が原典です。しかし、ギリシア神話にはそれにあたるものはありません。なので多種多様な伝承が存在しており、古代ギリシアの詩人や壺絵師たちは自分たちの美的センスに従ってそれらの神話を題材に創作したのでしょう。そうして今も伝わっているのが私たちの知る「ギリシア神話」なのです。

オラツィオ・ジェンティレスキ「ダナエ」

ホメロス叙事詩

 ところでその情報源の最も古い文芸作品としてホメロスの叙事詩があります。『イリアス』と『オデュッセイア』はホメロスという一人の詩人によって創られたとされていますが、本当は違う詩人によって創られたのだ!とか、いやいやそうじゃなくってホメロスが若い頃に創ったのが『イリアス』で、晩年のが『オデュッセイア』なのだ、とかの立場があります。その論争でしばしば話題になるのは、『イリアス』と『オデュッセイア』では詩人の神々の観念が違うのではないか、という問いです。『イリアス』では神々は自由気ままに行動するが『オデュッセイア』では神々(特にゼウス)は正義に則って行動している、と言われます。これについては深掘りしませんが、両詩においても神々は生き生きと描かれていて読者の注目を集めることは確かでしょう。 

叙事詩の伝統

 今「読者」という言葉を使いましたが、元々古代ギリシアではそれらの詩は朗読され、目ではなく耳で聴くものでありました。ちょうど一昔前の紙芝居みたいなものかもしれません(実際に見たことないですが汗)。その聴衆たちは、もちろん現代人と違い、実際にギリシアの神々を礼拝していました。例えばゼウスの妻ヘラはアルゴスという地域でもっぱら祀られていて、アルゴスに行けば今もヘライオン遺跡というヘラの神域を見ることができます。私も行ったことがあるのですが、「ここは神域である」と聞いたせいもあるでしょうが、やはりなんだか身が締まるような、背筋がしゃんとするような気持ちになりました。しかしそのような「神聖な感覚」と、ホメロスの描くヘラはなかなかに違っています。『イリアス』では夫であるゼウスに詰め寄るとゼウスが怒ってヘラが恐れをなす、という、なんとも人間臭いというか、私たちが一般的に思う「神」的でない場面が見られます(第一歌の最後あたり)。

ルーブル美術館にあるヘラ像

ホメロスの神と実際の神

 それでは詩に描かれる神様たちは、その当時の聴衆たちが持っていた実際の信仰とは関係のない、文学的な創作のたまものなのでしょうか。言い換えれば、神々は単なる登場人物として描かれていて、ホメロスの詩には宗教性は一切ないのでしょうか。確かに、叙事詩というジャンルはホメロス以前に長い伝統があったと今では考えられていて、ホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』の創作の裏にはそのような叙事詩の伝統があり、その中で神々の姿も定型句化していった、というのはあり得ることです。そう考えるとホメロスの神は確かに叙事詩の慣習的に属する「キャラクター」と言えるかもしれません(ちょうどアキレウスなどの英雄のように)。しかし、かと言ってホメロスの描く神々は実際の信仰と無関係ではなかったように思います。この微妙な関係をどう説明すべきでしょうか。

藤縄謙三の「詩的な宗教」論

 この問いに対して藤縄謙三『ホメロスの世界』(1996、新潮社)はまず、詩人ホメロス自身(および聴衆)の信仰と、登場人物の信仰をきちんと分けて考えなければならないと言います(第2章11節)。確かに、ホメロスは詩の中においては好き勝手に人間世界に干渉したり天上世界で気ままに過ごしたりといった恣意的な神々を描いている。しかしそれはあくまで詩作の領域においてであり、詩人自身も普段はそれとは違う、極々一般的な信仰を持って生活していたのだ。——このようにホメロスの詩における神々の恣意性を「詩人としての職業的な立場」から説明します。

それではホメロスの神々は全く宗教性を帯びていないか、といえばそうではない、と次に言います。つまり、詩人は自身の職業としての立場から神々を描いているが、それは詩的な真実、つまり「あり得そうかどうか」に則って描いているのだ、と藤縄は言います。例えば「アポロンが疫病を起こした」(第一歌)というのは一般的にアポロンは疫病の神なので「あり得そう」なことになり、詩として優れている、と評価されます。このように、ホメロスの神は聴衆の持っていた信仰とイコールではないものの、やはり無関係ではなく、「信仰の一つの詩的な表現」と言います。それはつまり、「詩的な宗教」なのだ、ホメロスの神は「祈願すべき神ではなく、驚嘆すべき神々」なのだ——藤縄はこのように聴衆(および詩人)と登場人物の信仰を区別しつつ、ホメロスの詩における独特な宗教性を見事に説明しています。

その「驚嘆すべき」神々の姿はいかなるものなのか?これについての私の考えは日を改めてまた今度書こうと思います。『イリアス』『オデュッセイア』の愛読家の方は、もし良ければ自身の「ここが良いよねホメロスの神!」的な推しポイントがあれば是非コメントください。

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