超短編小説 私の「君」だった「君」と、「君」な「君」へ。

誰かの幸せを願うことは、そんなに悪いことなのですか。
純粋な動機ではないにしても、今はただ、純粋な気持ちで、君の幸せを願っています。


こんな気持ちになることを、4年前には考えもしなかった。あの頃は、現在という刹那の時間が、その存在を断続的に連鎖させる事によって、未来という時間が、自分の目の前に現れると思っていた。しかし、その甘美な考えは、君という存在を通して、木っ端微塵に粉砕された。本来ならば、自分一人の「幸せ」でさえも、ろくに担保することが出来ないのに、当時、君を見ていると、それだけで、世界の酸素量が増えたかのように、世界に新たな色が付け加えられたかのように、世界初の音を耳にしたかのように、目の前の全てがプラスの電極を保持しだした感覚を覚え、また、それを、君も同様に感じているものだと考えていた。もしかしたら、君も同じように、色彩豊かな世界を感受していたのかもしれない。しかし、それが君にとっての「幸せ」だったのかどうかは、今になってもわからない。

君に私と同様の、言語では足りないこの気持ちを、感じて欲しいわけでも、共感して欲しいわけでもない。ただ、単純に、そして純粋に、私の感じていた「幸せ」とは、別の種類であろう、君の幸せを追い求め、そして、最後には掴んでいて欲しいと願っているだけなのだ。決して、偽善の心で思っているわけではないのだ。本当に、ただ、それだけを願っている。人を好きになることは、決して容易なことではない。それに伴い、その気持ちの表裏関係である、人を嫌いになることも、また、容易なことではない。人生の中で、その時間が、数えられる程度の刹那の連続であったとしても、自分の「幸せ」という気持ちを向けるほどに、狂おしい対象になってしまった相手のことを、容易に嫌いにはなることは出来ないのだ。

たとえ、それがどのような形の終末を迎えていようとも、君の幸せを、ただただ願っている。


しかし、この気持ちを抱いたまま、先に進むことが出来ないわけではない。もちろん、心が締め付けられるような感覚は、永遠に取れることはないだろう。ただ、その、自分ではどうしようもない、その「鎖」が、自分という人間を形成してくれる一部となり、また、次の一歩目に対する、コンパスの役割を担っていることを、自覚することで、また、自分の「幸せ」への探求につながるものになるのだと思う。
大人になるという言葉の意味を、私はこのように考えるようになった。


私の、次の「君」への幸せを願い始めて。

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