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作曲家に想いを馳せる

最近音楽投稿が多い。所属オケも次の本番に向けて始動したところで、何かと以前より係わりが増えてきているのもあり、音楽系に思考が傾いている。あと、別の本番の話も出たり入ったりで、余計に。コロナよ、この調子でおさまってくれ。人々よ、この調子で忘れてくれ。

ブルックナー投稿(お、あらたな笑)を始めたのもあるけれど、作曲家に想いを馳せる時間ほど、素晴らしい時間はない。作曲家に限らずだが、とくに作曲家はそうだ。譜面も残っているし、自筆譜も残っている場合は、そこに作曲家の息吹を感じる。出版された本より楽譜には情報量は多いのだろう。情報量の多さに加えて、受け手の情報の消化の仕方がまた、千差万別だ。本も自由に読んでいい、というのをこの前又吉のYouTubeでチラッと見たが、その通りだと思う。本は文字を読むことは多くの一般人に「かくあるべき」を強いるところもあるが、本以上に楽譜は読み方がバラける。答えのない世界。

論が外れた。楽譜も文字も、死んだ人の残したもののときに、その作者に想いを馳せることが増えた、という話。ブルックナーと並行してドビュッシーの曲を演奏することになって、いろんなものに触れている。ドビュッシーこそ、みんなが大好きな印象派の絵画とのつながりなど、読めば読むほど、噛めば噛むほど世界が広がる。想いが馳せ過ぎて見失う。その世界に浸ることもまた、悦なり。

想像力の翼は衰えてきているかもしれないけど、その分飛び方が上手になっている気もする。子供の頃にこの飛び方を知っていれば良かったのかな、それとも知らない方が良かったのかな。

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