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「文才」とは何か。文章を書く才能はテクニックじゃないお!メンタルのほうだお!という話
お疲れ様です、pontaです。
夏休みも終わりに近づき、作文の書き方についての質問DMが舞い込む季節になってまいりました。
それについては下記エントリーにまとめてありますので、ご参考ください。
ただ、文章力ってテクニックじゃない気がするんですよねー。
いやそりゃあ、読みやすい文章を書くために、大量に読み書きすることは大事っすけど、文才をもって生まれた人ってのがいるんですよ。
「自分がそうだ!」なんていう気はなくて。たとえばこの人は本当に素晴らしいです。
文才のある人は、見る人が見ればツイートひとつ、いや50字くらい書いてもらえればセンスがわかります。
文才ってなんなんすかね。
読みやすさ、たくみな言い回し、構成力、魅力のある題材の選び方…。
いろいろな尺度で測れそうですが、自分は下記のマトリクスだと思っています。
ゴキゲンとウツというのは、「感情の振れ幅」のことです。エモさと言い換えてもいい。人って、「嬉しい」とか「悲しい」だけでは創作はできなくて、両方に振り回される必要があって、この高低差があればあるほど、クリエイティブになる。
差は驚きであり、パワーであり、意外性であり、面白みです。
振れ幅のある人は、晴れたらうれしい、雨降ったら落ち込む、そんなメンヘラ一歩手前の激しい感受性、耳がキーンとなりそうな高低差こそが、生きる喜びや悲しみ、おもしろさを表現するエモエンジンになると思っています。
エモい人がおもしろい人なんです。
さて、もう一つ、「自分」と「もう一人の自分」です。
文章がうまい人、作家さんとかはたいてい、「もう一人の自分」がつねに、自分の後ろに立って自分を眺めてるといいます。
ものを作りたがる人、書きたがる人なんて、自分自分自分のめんどくさい人ばかりなんですが、それをちゃんと面白く仕上げる人はたいてい、「巨大すぎるエゴを持った自分と、それを冷めて見守る観察者の自分」のふたつを持っています。
エゴっていうのはワガママとか、欲望と言い換えてもいいです。
「お金がほしいよーん」とかいうのはエゴ。「とかなんとか言っちゃってる俺ってクソやな」というのは観察者。
世のたいていの人は自分で自分のことを観察しているつもりでも、単に「俺って駄目な奴だ」とか言いながらもそのじつ、自分を可愛がっているだけだったりします。
そこにとどまらず、自分の汚さや愚かさといったエゴを見つめきる、その苦行の済んだ人の文章は、やはり一味違うんですよね…。一目瞭然です。
性格の良しあしとかじゃないですよ。自分のエゴを見つめ終わってもいやなやつは山ほどいます。
いやなやつならいやなやつなりに、そんな自分を笑って眺める冷たい目を持つのです。
だから、なんていうのかな。ゴキゲンでもありウツでもある、そしてエゴに没頭するくせに、自分を突き放して見れる観察者でもある、そんなふうにマトリクスの「円」が大きければ大きいほど、良い文章を書ける素質があるなあと思って見ています。
何言ってるかわかりますかね。
冷静と情熱。ソーとウツ、ボケとツッコミ、実行と観察といったふうに、真逆の資質をひとりで包括した人の文章や表現はやっぱり、面白いです。
たとえ小学生であっても、底冷えするような、一歩引いた観察眼をもった文章を書ける子がいたりして、やっぱそういうのを見ると、持って生まれた資質みたいなものってあるのかなあと最近思った次第です。
以上、よろしくお願いします。
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