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ゲームがガチ勢ばかりになり、界隈が仲良くなると、コミュニティは衰退していく説。そして「ゆるい」や「薄い」の中にこそ、ゲームを盛り上げる本質はあるんじゃないかという話

お疲れ様です、pontaです。

ゲームコミュニティについて公私で考える機会が多いです。

そこでふと、これまで私が好んでやってきた「ゲームのガチ化(対戦に命をかける)」とか「コミュニティの統一感(みんながみんな知り合い、関係性を作る)」って本当にそれ、正しかったのか?って自問自答しちゃったんですよね。

不肖・ponta、この6年間というものクラクラというゲームのブロガーとして、「対戦・命」と「コミュニティの注目を一か所に集めること」に関心を払ってきました。

それは大事。これからもその軸はゆるぎません。

でもそれ「だけ」だとイベントがゲームの本質から離れ、ゲームコミュニティが貧しくなるかなとも思っていて。

なんていうのかな。

私のゲーム歴を車で例えるなら、そもそも私は「軽自動車を親に買ってもらって近所を乗り回して喜んでいたライト層」だったんですよね。

それが速く走ることの楽しさに目覚め、高級車を買い、カーイベントに参加し、イベントを自分で主催し、全国の車好きと知り合い、なんなら世界最高峰の戦いであるF1のスタッフとなった。

これはもちろん素晴らしいことです。

でもF1って、「クルマの本質的な楽しさ」とどれだけ近いんだろうかって自問自答するようになっちゃって。

いやF1…つまりトップリーグとかは絶対にあるべきですよ。上手い人の目指すべき目標としてなくては絶対にいけないものです。

ただF1の楽しさとクルマ本来の使い方には距離があることを、ちゃんと冷静に自覚、認識しなきゃだめだなって。

つまり、eスポーツとかプロリーグにハマって惹かれる自分もいるいっぽうで、そこに特化しすぎるとすごくバランスが悪いな、なんならeスポーツのためにもよくないな、と思う自分もいたりするんですよね。

なんちゅうか、eスポーツとかガチに特化すればするほどに、先鋭化して、特殊化して、ムラ化しすぎていく。それは自戒し続けなければいけない。

悲しいお知らせがあって、へたにガチ化してる人、eスポーツ愛がある人ほどそこは「分けて」考えられなくなる、思考放棄しちゃうんですよね。このゲームの本質はそこじゃねえんだよ、ってことが。(自分もよくなります)

クラクラの本来的な楽しさでいえば「チャットで仲間と話せて楽しい」「村が育って楽しい」「敵の村を全壊して楽しい」が快楽の本質だと思うんですよね。

クラロワでいえば「カードを育てて楽しい」「トロが上がって楽しい」「デッキを組んで楽しい」が本質です。

スマブラとか格闘ゲームであれば、「新しい技を出せて楽しい」「新しいキャラを使えるようになって楽しい」「友達に勝って楽しい」とかですかね。

そういう素朴な喜びのためにゲームがデザインされている以上、その本質から離れれば離れるほど、マニアックになり、参加する人、見る人が限られいってしまう面はあると思うんです。

もちろん、個人的な思いとしては、自分の好きなゲームのプロリーグとか、ガチ大会が盛り上がり、満員の観客が会場を埋めつくしたらアツいよねーという気持ちは根本です。そこに水を差す気持ちはない。

でもその“手段”として、ゲームを盛り上げる根本として、“素朴な喜び”は大事にしなきゃだし、忘れたらだめだし、逆にそれを使えばすごい武器にもなるんじゃないかなと。

ドズル氏の「0からレジェンド」とかも、みんなが忘れてしまった「宝箱を引く楽しさ」があるからヒットしたわけで。いいですよね、宝箱を引くのって。ウルレア出るとドキドキしますよね。

そういう小さな喜びを楽しむゆるふわ勢の育成の先にこそ、未来の天才ガチプレイヤーは生まれるんじゃないのかなとも。

村を育てるの楽しいですよね。カードを育てるの楽しいですよね。という小さな喜びを改めて見直し、広めていく方がすそ野が広がり、むしろ結果的に上級者の受け皿としてのeスポーツのためになるんじゃないのかなって。思っています。

あと、ちょっと別の議論になりますが、ゲームコミュニティ、ゲームの歴史が長く続くと、変な人は排除され、みんな顔見知りになり、「この界隈は良い人だらけ」とかヌルいことを言いあって褒めあい、どんどんムラ化していきます。

個人的に、誰も炎上しないTwitterとか予定調和の極みで退屈だし、毒舌ぶってるくせにぜんぜん本質をついてない物申す系の人とか死ねばいいのにとか思っちゃうクチなんですよね。

「良い人だらけ」とかそんなもん衰退の一歩前だろ馬鹿野郎って感じなんですがそれはともかく。

まあ、コミュニティが長く続けば、かつてはバチバチにやりあっていた(あるいは存在を知らなかった)「ガチ界隈」「Twitter勢」「動画勢」といった派閥性や垣根も、圧倒的なコミュニティリーダー(有名人)のもと、派閥や垣根を超えて大きなイベントが開かれ全てが混在一致、知り合いとなり、マナーが良くなっていくのはどのゲームでも避けられません。

ただ、そうした大きなイベントの面白さは逆に言うと垣根や多様性にあったんじゃないか、みんなが顔見知りになれば逆に意外性が殺され、ガチ感も一緒になくなっていくんじゃないかという仮説。

つまり、みんながみんな顔見知りの、濃い関係性の醸造は“いいこと”である反面、ケンカがなくなり、物申す人は阻害され、そのぶん意外性や面白みはなくなり、逆にコミュニティはゆるく衰退していくというね。

もちろん人間同士のつながりでゲームを辞めずにいる人も大勢いるので、そこは大事ですよ。ただ一方で、という話。

難しいんですけどね。居心地のいいゲームコミュニティを作りつつ、いっぽうでそのコミュニティにハマらない人たちを作る、見つけるっていうのは。でもそれは絶対に必要だなと思っているんです。


なんていうのかな。「ガチ」だったり「濃い」にハマればハマるほど、「ゆるい」や「薄い」の中にこそ、そもそも、ゲームを盛り上げるための本質はあるんじゃないかというのは忘れずにいたいっすねえ。


僕は好きなものほど親身になり、そしてシニカルに評論するヘキがあるので、そういう意味ではSUPERCELLゲームとeスポーツはご愁傷様です。

身内のたわごとと思って聞き流してください。獅子身中の虫とか言わないでください。

以上、よろしくお願いします。


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