【小説】あいすべきひと(前編)
客観的に見ても、結衣(ゆい)はなかなか整った顔立ちの女の子だった。
大人っぽいとか、アイドルみたいとかいうのではないけれど、子どもらしく澄んで大きい目と通った鼻筋が、素直なかわいらしさをかもし出している。早くに亡くなった母親にもよく似ていると言われる。
結衣自身は母のことをあんまり覚えていないけれども、父の友章(ともあき)はそういうのも含めて、娘に特別な思いがあるんだろうな、とは自分でもわかる。
だから友章が甘いのも無理はない。のかな、とも思うけれど、それでもちょっとなあと思うのだ。友章ときたらことあるごとにかわいいかわいいと、いい加減で結衣は食傷気味なのだった。もう十二歳だし。ひと月もすれば十三歳になるし。
なので、仕事の都合がどうしてもつかなくて、結衣の中学校入学式が見られないなんていうのは、友章にしてみれば四十一年の人生最大の失敗だったろうけれど。結衣にとっては、この上ない幸運だった。よかった、まじよかった。結衣は改めて思う。
先月の卒業式は最悪だった。人目もはばからずに場所取りするわ手振るわ声援送るわ泣くわ、運動会じゃないっての、はっ倒してやりたいと結衣は何度こぶしを握りしめたか。
その上「かわいい、かわいい」と家でも式でもばしばし撮影しまくるし。どうせ一回しか着る機会のないシックなベージュのセーラー襟ジャケットをわざわざ買ってもらえたのはいいけれど、あんな苦行とセットではうれしさも半減だった。
その点、今日はのびのびできた。紺ブレザーの制服に二つ結びの髪はちょっと地味でも、代役で友章の姉の亜矢子(あやこ)伯母さんがしっかりビデオカメラを構えてはいても、友章がアホなことしないかなんて気をもまなくて済む。
ほどよい緊張の中で新しい友達を作ったり、咲やカエちゃんたち、小学校からの仲良しと、部活とか先輩とかの信頼度ゼロのうわさ話にキャーキャー盛り上がったり。これよこれ、と結衣はおおむね満足して、紅白幕のかかる体育館を後にした。
でももちろん、結衣たち新入生にとって重要なのは、式自体よりもその後のクラスでの顔合わせの方だ。
岡谷と名乗ったおじさん教師のあいさつの後に続く、生徒たちの自己紹介。ここでつまずくのは非常にまずい。結衣としてはとにかく目立たず、空気みたいにこなしておきたい。
教卓までしずしず歩いて行って、
「〈名前〉です。得意なことは〈科目、趣味〉です。よろしくお願いします」
――礼。おしまい。大丈夫、大して難しいことではない。
ぐっと気負って待ちかまえ、同時に仲良くなれそうな子をまめにチェック。
初めのうちこそ前のめりに緊張していた結衣だったけれど、何しろ男子も女子も、ほとんど一字一句違わないコピー&ペーストだ。延々続くうち、
――終わったら先生の話で解散、伯母さんと合流、ファミレスでシーフードドリア――。
と、だんだん気がゆるんできてしまう。
春のぽかぽかに眠気まで誘われ始めた頃、すぐ前の席の女子が元気よく立ち上がった音で、結衣ははっと我に返った。
その子は早足で教卓に歩み寄ると、いきなり口走った。
「世界一かわいい日野愛華(ひのあいか)です! クラスみんなにかわいいって思ってもらいたいですっ」
――は?
一気に意識を引き戻され、結衣の目は教卓の前に釘付けになる。
知らない女子だ。結衣とは別の小学校から上がってきた子だろう。乗り出すみたいにして正面に向けているその顔は――どうだろう、かわいい、か?
最近少し近眼気味の結衣にはいまいちはっきり見えないが、とりあえず「遠目にもわかるオーラ」みたいなものはまったくなかった。それに朝から今まで、そんなかわいい子が視界に入った記憶もない。
自虐ネタでウケ狙いして、盛大にすべったのか。――と、だが教室のあちこちから、遅れてくすくす笑い声が上がってきた。
ウケたというより「いつものアレ」「お約束」みたいな雰囲気だった。同じ小学校出身の子たちかもしれない。
そういうキャラなのか。いつもの感じなのか。
でも――イタいな、と結衣は思った。
日野愛華は、満足そうに前の席に戻ってくる。だんだん様子がはっきりわかる。
そっけないショートカット、背も高くないし、特別細くもないし。赤いほっぺた、一重のまぶた、低い鼻、うん、やっぱり……。
「全然かわいくないじゃん」
結衣が思っていたのとまったく同じセリフが、後ろの方から飛んできた。
あ、佐伯だ、とすぐにわかった。
六年のとき結衣と同じクラスだった、佐伯琉次(さえきりゅうじ)。相変わらずウザい声。
目立ちたがりで出たがりだけど、バカだから誰もついて来ない。
乱暴者。ただのアホ。考えなし。あんなヤジ飛ばしたら、初日からクラスの嫌われ者一直線なのに。
日野愛華は、びっくりした顔で立ちつくしていた。教室がざわざわうるさくなって、不穏な雰囲気になってきた――。
その時突然、にっこり、日野愛華は笑って佐伯に指をさした。
そしてよく通る声で言ったのだ。
「君は、かわいいねえ!」
「……はあ?」
佐伯が絶句した瞬間、クラス中から歓声がわき起こった。ヒューー! とか口で言っている口笛の音が響く。
「ばっかじゃねーの、な、何……」
「ぎゃー! 佐伯、赤くなってるー!」
「かわいー、まじかわいー」
「ちがっ、おまえら……ばば、ばっかやろー!」
口々にはやし立てる外野にあらがって佐伯は必死でさけんでいたが、場の空気は完全に彼をピエロにしていた。
結衣は思わず感心した。やるじゃん、日野愛華。
教室は岡谷先生が立ち上がって場を収めなければならないほど、一時制御不能になった。意外とノリがいいクラスかもしれない。
大騒ぎの後、まだざわついているうちに、結衣はするっとテンプレートな自己紹介をこなした。けれど教卓に立った時、ふと思ってもいたのだ。
さっきのセリフ、もし私が言ったらどうなるだろう、なんて。
「世界一かわいい瀬川(せがわ)結衣です」――。
ないない、と打ち消す。そんなことを結衣が言ったらギャグにすらならない。自分でかわいいとか、あり得ないセンスだ。
けど、さっきのはちょっと――すっとした。
となりを通り過ぎる時、まっすぐ前を向いた日野愛華のこけしみたいな顔が、薄いはずなのに妙に印象に残った。
*
ランチの後、亜矢子伯母さんは結衣を車で家まで送ってくれた。伯母さんも家に上がってきびきびと自分で紅茶を入れる。
「あーくたびれた。ああカメラ! 持って帰っちゃうとこだった」
ソファに腰を下ろしたかと思ったらまた立ち上がって、伯母さんはバッグからハンディカメラを取り出す。
「いいのにビデオなんか。消しちゃおうよ、撮れてなかったって言ってさ」
「そんなの、パパ泣いちゃうでしょ」
「いいよ泣けば」
そっけない結衣の言葉に伯母さんは吹き出した。
「まーったく、この前までパパ大好きだったくせに」
「そんなの去年とかの話じゃん。やめてーキモいー」
つい去年の話でしょ、なんて切り返さない亜矢子伯母さんが、結衣は好きだ。
伯母さんは四十四歳、ぱりっとした美人で、もう少し若いころはどこだかの会社の秘書として勤めていたらしい。今は専業主婦だが、ちゃきちゃき動いて好きなことして、そういうところは弟の友章にも受け継がれてよく似ているからか、姉弟仲は悪くない。
「キモいかあ」
「キモいよ! だって父さん、夜中にぶつぶつ言いながらネットで私の服選んでるんだよー。キモいよー」
「でもキモいなんてパパに言ったら、それこそ泣いちゃうでしょ」
「えー、泣かないよ。ていうかよろこぶ」
「パパは結衣ちゃんがかわいくて仕方ないからねえ」
結衣は顔の中央にしわを寄せて、思い切り不細工な顔をする。
「かわいいって、なんかさ。そう言われるとさ、なんか……子ども扱いっていうか。かわいいより、きれいって言われたいな」
聞いたふうなことを言う結衣に、伯母さんは柔らかい笑みを向ける。
「そう? 簡単じゃない、そんなの。かわいいって言われる方が難しいよ」
「そりゃ伯母さんはそうかもだけどぉ」
結衣は上目遣いに伯母さんをにらむ。
伯母さんはいつもきれいだけれど、ことに今日は紺のパンツスーツに小さなダイヤの光るネックレスで、きりっとぴかっと、ビターなケーキみたいだ。そんな風情でふうっとため息なんかついて、
「きれいって、さみしいもんよ」
とか言うから、結衣は思わずほへーと見とれてしまう。
「さみしい? なんで? もしかして、伯父さんとうまくいってないの?」
「ちがうちがう! うちのおっさんのことはいいのよ別に」
「じゃあなんで? なんでさみしいの」
結衣はテーブルにひじを付いて、行儀わるく身を乗り出す。
「なんていうかな、きれいなんてただの事実じゃない。なんの気持ちも入ってないでしょ。言われなくてもわかってるって感じ。けど『かわいい』には、気持ちがこもってる」
「うーん?」
そうかなあ、と結衣は考えてみる。
「あのね、今日クラスの子がね、全然かわいくないって男子に言われて、笑って君はかわいいねって返したの。でも、なんかそれがすっとしたのね。それってなんでかな? 気持ちがこもってるってそういうこと?」
「へえー。『あんたこそかわいくない』じゃなくて、『あんたこそかわいいね』なんだ。面白いね、その子」
伯母さんはゆかいそうに笑って、一言付け足した。
「思いっきり見下してるのか、それともすごい天然なのかね」
見下してる……。あ、そうか。結衣の頭で、何かがかちっとはまる感じがした。
そうだ、かわいいって、見下してる。こいつより上だ、大人だっていう気持ち。だから言われるといつも、子ども扱いされてる気分になるんだ。
それで日野愛華は、佐伯にそっくりそのまま言い返したのか。「君、かわいいねえ」ってつまり、「おまえなんかガキんちょだ」って意味だ。だからあの時、こっちまですかっとした気分になったんだ――。
そこまで考えて、結衣は気付いた。もしかしてそれって、私にもできるんじゃないの。
結衣は含み笑いをしながら問いかけた。
「ね伯母さん、父さんのことかわいいって思ったことある? 伯母さんて父さんのお姉ちゃんでしょ。そういう話なんかない?」
「かわいいって? パパを? いやあ、ないでしょー」
「一回もない? 子どもの頃も?」
「そりゃ昔は……ああ、そういえば昔、パパにスカートはかせたことあったわ」
「なにそれー! スカート? どんな?」
「そこまで覚えてないけど、普通の。パパかわいかったんだよ、幼稚園の時。女の子にまちがわれるくらい」
幼稚園か、すげー。父さんが幼稚園。と思ったけれど、そこは茶々を入れないでおく。
「ズボンもパンツも脱がして隠して、フルチンがいい? スカートなら履いていいよって」
「ひどー。待って、パンツも? じゃあノーパンスカート?」
「ノーパンスカートよ。しかも私そのまま友章ほったらかして遊び行っちゃって」
「あははは! それでパパどうしたの?」
笑った拍子に「父さん」じゃなくて「パパ」って言ってしまった。でも伯母さんは聞き流してくれたようだ。
「おばあちゃんが新しいズボン出してくれたみたい。楽しみにしてたのに、帰ってきたらあいつ、ふつうにズボンはいてテレビ見てるんだもん。私ちょっと悲しかったんだよ」
「あは、あは、そりゃそうだ、おばあちゃんも驚いたんじゃない? ノーパンスカート」
「まあ怒られたわね。でもそうね、かわいかったなあれは」
「あはははは。ね、他には? もっとない?」
「何、いきなりなんでこんなの知りたいの?」
「仕返し!」
仕返しだ。自分がやられれば友章も、ちょっとは気持ちがわかるだろう。
*
――と思ったのに、その夜帰ってきた友章にさっそく伯母さんの話を持ち出して、「ノーパンスカート、ぷぷぷ、カワイー」なんて言ってやったら。友章は妙に遠い目をして、
「そうだなあ、おれだってかわいい時があったんだよなあ」
なんてしみじみつぶやいていた。ごくたまに、ぽつりと母さんの話をする時みたいな、いやに静かな雰囲気になってしまって。なにそれちょっと、大丈夫? と結衣はうっかり心配顔になってしまったのだが、
「じゃあかわいいパパはかわいい結衣ちゃんの入学式を見まーす」
などとすぐに笑えないノリでおどけ始めた。全然こたえていないようだ。
「もーやめてよ、キモキモキモ」
「一緒に見ようよー」
「やだ、見ない」
まあそうだよね、と結衣はため息をついた。「かわいい」が見下した言葉というだけなら、日野愛華だって自分で自分をかわいいなんて言わないだろう。
結衣も半分わかってはいた。いつも友章が言う「かわいい」に、悪い意味だけがあるわけじゃないと。
今結衣が言った「カワイー」だって口にしてみたら、なにも友章を見下してるだけじゃなかった。ただ子供の頃の友章という組み合わせが妙に面白くて、からかってみたかったのかもしれない。
なんとなく、わかったことがある。
「かわいい」にはいろんな意味がある。
友章があんな目をしたのは、きっと亜矢子伯母さんから出た「かわいい」だったからだ。
昔の自分を思い出したからだ。その「かわいい」はきっと――「なつかしい」?
じゃああの子は、なんで自分をかわいいなんて言うんだろう?
佐伯への「かわいい」は攻撃だったとしても。あの自分自身への「かわいい」は、どういう意味なんだろう……。
結衣はいつの間にか、ずいぶん日野愛華が気になっていた。
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あいすべきひと(後編)へつづく
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