【小説】あいすべきひと(後編)

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翌朝教室に行くと、ちょっとした問題がまさに進行中だった。教室の後ろの方で、日野愛華と佐伯が何やら言い合っている。

「何あれ、どしたの?」
結衣が昨日仲良くなったとなりの木崎さんにたずねると、
「日野さんが佐伯に『おはよう、今日もかわいいね』って」
はー……すごい。追い打ち? それはやりすぎじゃない、日野愛華、と結衣は他人事ながら少し心配になる。わざわざなんでそこまでコトを荒立てるんだろう。
ひやひやしながら様子をうかがうと、佐伯は妙に冷静な口調で日野愛華をさとしていた。

「おまえさ、そういうの、やめた方がいいぞ」
「なんで?」
「だってかわいくねーし。一回鏡よく見てさ……あれだよ、身の程を知れってやつ。な」
佐伯はいきなり結衣の方を指さした。
「ほら、瀬川の方がよっぽどかわいいじゃん」

ぎゃー。
何言ってんの佐伯! 巻き込むな! と心の中で絶叫しながら、結衣は目をそらす。

しかし日野愛華の声は結衣など全然気にしたふうでもなく、
「知ってるよ、身の程。私かわいいよ」
「かわいくないって!」
笑えるほど話が通じてない。ムッとした様子で佐伯は声を高くした。
「少なくとも、おれはぜんっぜんかわいいと思わねえからな」
「――かわいそう」
「あ?」

「私のことかわいいと思えないなんて、かわいそう」

佐伯はあぜんとしていた。周りにいたみんなも、結衣もだった。はっきりと、引いた。
日野愛華は、本気だ。ギャグで言ってるわけでも、キャラを作ってるのでもない。本気でそう信じている。つまり、自分が世界一かわいいと――。

不気味だ、と結衣は思ってしまった。

「いい? 佐伯君、人にかわいいって言えないのはね……」
「か、かわいくねーんだよブス!」
捨て台詞を吐いて、佐伯は逃げるように廊下に出て行ってしまった。
何か言いかけていた日野愛華は憮然とした顔で、結衣の真ん前の席に戻ってくる。ひえっと思う間もなく、
「おはよ、瀬川さん! 今日もかわいいね!」
妙なあいさつが飛んできた。佐伯に引き合いに出されたことへの、当てつけなのか? それとも単なる、朝のあいさつなのか。
「えっと、ありがと……」
「私は?」
「は?」
「私はかわいい?」

アイムファイン、アンドユー、の流れ? それって定型句?
「か、かわいいよ」
「……本気で言ってない」
ひえー。やっぱ怒ってる。やだよーこわいよー。私は関係ないじゃんよー。
完全に及び腰になる結衣に、日野愛華は、でも少し笑顔を見せながら、さとすように得意げに言った。
「人に本気でかわいいって言えないのはね。自分のことかわいいって思ってないからだよ」
「え?」
それどういうこと、って聞こうとしたとき、ちょうどチャイムが鳴ってしまった。しかも同時に岡谷先生が入ってくる。入学二日目とはいえ、よっぽど気合の入った先生だ。やっぱりこのクラス、ハズレかもしれないと結衣はちょっぴり猫背になる。

でも今のどういう意味だろう。結衣は目の前の、自分と逆に姿勢正しい背中をにらむ。


昔、小四の頃。

ちょうど今みたいなとばっちりで、結衣はグループからはじき出されたことがある。グループの女子の一人がある男子に告白して断られ、その男子はこともあろうに「瀬川の方がかわいい」とか言ったらしい。
幸いにして男子が転校した後は元通りグループに戻れた結衣だったが(元々彼が転校するからこその告白イベントだった)、それでも、メールとかやりとりしてるんじゃないの、という疑いを晴らすのに相当苦労したのだ。
だいたいあの男子は結衣と話したこともなかったのに、なぜそんなことを言ったのだろう。彼の顔なんかそのときですらおぼろげで、今はもうもやもやした黒い影でしかない。
とにかく謎の、そして結衣の人生最悪の「かわいい」だった。

――自分のことかわいいとか思ってるの?

投げつけられた言葉に、「そんなことない」と首を振る以外、どうすればよかっただろう。


そんなトラウマまで呼び起こされ、相当臆病になってしまった結衣だったが。日野愛華の方は班行動の時も給食の時も、にこやかに話しかけてきた。
別に怒っているわけでもなかったのかと結衣はひとまず安心したが、だとすればますますさっきの言葉は気にかかる。

本気で言ってない、って?
そりゃあ、全然本気じゃなかった。だってかわいいかって聞かれたら、かわいいよって返すだろう。いわゆる、社交辞令? それが悪いことだろうか? 本気で言うっていっても、本気の「かわいい」って、じゃあなに?
問いただしてみたかったけれど、あんな話を、女子も男子もごちゃごちゃといる前で話題にするほど、結衣は大胆になれず。

「さっきの、どういう意味?」

ようやく聞くことができたのは、ホームルームも終わってこれから下校、あるいは部活見学、各自ばらけてみんなの注意が外に向いた時だった。

すぐに下校するつもりだったのか、カバンを持って勢いよく立ち上がったところを呼び止めたものだから、日野愛華は少しつんのめるみたいに立ち止まった。
「ん? さっきの?」
「自分をかわいいって思ってないって……」
「ああ! べつに、簡単なことなんだけど」
日野愛華は自分の椅子にすとんと後ろ向きに座り直し、結衣と向かい合う。
「聞きたい?」
「……うん」
「ほら、『人を好きになるには、まず自分を好きにならなきゃ』って言うでしょ」
「うん」
「それとおんなじ。人をかわいいって思うには、まず自分をかわいいって思わなきゃいけないの」
「うん……うん?」

おんなじ? んん? おんなじか? うなずきかけて固まった結衣に、日野愛華はふいに真顔になって問いかける。
「瀬川さん、自分のことかわいいって思う?」
「えっ……」
凍り付いたように、結衣は口ごもった。

――自分のことかわいいとか思ってるの?
その言葉は、結衣のトラウマで。
だけど、きっと結衣自身が、いくつも投げつけてきた言葉でもあったんじゃないか。つい昨日だって、日野愛華が自己紹介したときに、同じように思わなかったと言えるだろうか。
「さっきね、瀬川さん私のことかわいいって言ってくれたけど、あんまり自信なさそうだったから」
「それは……」
「自分のことも、ちゃんとかわいいって、思えてないんじゃないかなーって。だめだよ、まず自分のこと、ちゃんとかわいいって思わなきゃ、『かわいい』に気持ちが入らないよ」
「……思えないよ。かわいいなんて」
結衣は言い返すようにつぶやいていた。

友章は、いつもかわいいと言ってくれる。少し見下されていたって、本当はそれは、別にいいのかもしれない。
でも、かわいいってなに? 見た目のこと? しぐさのこと? ひょっとしたら、母さんの面影のこと? 結衣にはわからない。わからなければ信じられない。そんな適当な一言で、オールOKになんかできない……。

「私は瀬川さんのこと、かわいいって思うよ」
「なんで? どこが?」
今度ははっきり反感を覚えて、結衣は突っかかった。なのに返ってきた言葉は、拍子抜けするぐらいにあっけらかんとしていて。
「どこって? 全部が」
「……ぜんぶう?」
結衣が目をぱちくりさせるのにかまわず、日野愛華はごく明るく続ける。
「私、瀬川さんのことも、佐伯君のことも、パパやママのことも、岡谷先生のことも、みんなをかわいいって思うよ。だって私は私をかわいいって思うから」
「ちょちょ、ちょ、ちょっと待って」
みんなって、そんな簡単に、そんな単純に。オールOKになんか……。

「かわいいってさ、『大事』ってことじゃないかなって思う。そういう気持ちが入ってるって感じ、しない?」
「気持ちが、こもってる……?」
「みんなが自分のことかわいいって思えたら――ね、それって、自分も、相手も、世界中みんながかわいいってことでしょ」

とっさには声も出ず、やっと結衣が言えたのは「す、すごいね」なんて言葉だけだった。
世界中? なんてスケール。壮大。
見下してるとか、言葉の意味とか考えてた自分が、やけに小さく思えてきた。

自分がかわいくて、自分が大事だから、みんながかわいくて、みんなが大事。

そんなふうに思えたら、かわいいって言われるたびに、言うたびに、まるで世界平和に近付いてるみたいだ。なんて能天気で、底抜けに明るいイメージなんだろう。
自分の頭にその空気感がじわじわ広がってくるのを、結衣は止められなかった。なら父さんは平和の使者か、と笑い出しそうになる。
そして結衣はとんでもないことに気付いた。昨夜、結衣は言ったのだった。冗談半分にだが、確かに友章に向かって「かわいい」と。

「かわいい」は「大事」。

「ちちちがうから。そんなんじゃないから」
友章と輪になって楽しく回るおかしな妄想を結衣はあわてて打ち消したが、
「ちがくないよ」
日野愛華はいきなり、結衣の両手を束ねるようにぎゅっと握った。少しの疑いもない、まっすぐな目が結衣を正面から見つめる。そしてゆっくり、はっきりした発音で、
「君はかわいい、だから私もかわいい」
言われたものだから、結衣はけっこう、かなりどきっとした。だから続けて日野愛華が、小さい子にするみたいに、
「言ってみて? せーの、きみは――ほら!」
と言ったときには、変な声で吹き出してしまった。
なんか間が抜けていて、ばからしくて。

でも、すごい。

「日野さん、すごいね。すごいこと考えるね」
改めて言った結衣の言葉に、日野愛華はまったく当たり前の顔をして答えた。
「え? すごくないよ、かわいいだけだよ」
「あははは! そうだね、かわいいだけ、かわいいだけだあ。あはははは」

日野さん、面白いかもしれない。
友だちになりたい、かもしれない。ほこっとあったかい気持ちになっていると、日野さんは突然大声を上げた。
「あー! 佐伯君どうした?」
「佐伯? さあ……もう帰ったんじゃない?」
いつの間にか、教室にはほとんど人がいなくなっている。
「あー、しまった。話途中だったのにい」
「今朝のこと? 話って」
「うん、でもうまく伝わらなかったから――」
日野さんはノートをびりっと破いて、シャーペンで何か大きく書きなぐっていた。
それからカバンを持って教室を飛び出すと、昇降口へ向かった。帰るのかと思ったら、自分のでなく、「佐伯」と書かれた靴入れの小さな戸をちゅうちょなく開け、紙切れをぽいっと投げ込んだ。

「えっ、ちょっと、何? ラブレター?」
「あっは、ちがうって。今朝の話、ちゃんと伝えたくてさ。ていうか、今話したのとおんなじことだけど」
いやな予感がして、結衣は聞いてみる。
「み、見てもいい?」
「いいけど。同じだよ?」
四つ折りの紙切れをおそるおそる開くと、はたして確かにそこには、結衣が聞いたのと同じ言葉があった。

『佐伯君へ。君は可愛い。だから私も可愛いんだよ。日野』

そっか、かわいいって、「可愛い」って書くんだっけ。
真ん中の字が、とても素敵だ――と結衣は思った。

思ったけれども。それはそれとして。

――やめなよやめなよ、なんか絶対誤解されるよ。
結衣が決死の表情で説得して、日野さんはしぶしぶ思いとどまってくれたけれど、明日の朝本人に直接伝える、と言うのまで止めることはできず。波乱必至の明日を思うと、結衣は頭が痛くなるようだった。
男子にまで手を握って、さっきのあれ、やるつもりなのだろうか。それはあまりに無邪気すぎて――。

「日野さんってさ、そういうとこ……」
「?」
「うーん……かわいい、かも」
「ありがとう! 瀬川さんもかわいいよ!」

またもぎゅっと握られる手の力も声量も自信も、とてもかなわないなと結衣は思った。
まだまだ、たぶん、今のところは。

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