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グリーンバーグ批評選集を読んでジュエリーに当てはめて考えてみた

私は昔から読書が苦手で長いこと敬遠してきたが、美術の世界に入ってからはオススメされた本は読んでみようと、半ば強制的に本と向き合っている。
最近、北澤憲昭の『美術のポリティクスー「工芸」の成り立ちを焦点として』を読んだあと、続いて『グリーンバーグ批評選集』を読み始めた。偶然だと思うが、どちらにも《アヴァンギャルド》というキーワードについて考察を巡らせていたので、個人的にとても印象に残った本だった。
物凄く掻い摘んで説明とするとしたら、北澤は明治維新前後から1900年代前半を中心として、工業を解体して美術(純粋、視覚)と工芸(複合的、実用)に分類し、そして第三勢力としてアヴァンギャルドのムーブメントまでを紹介しており、グリーンバーグは70年代の芸術運動として、アヴァンギャルドとキッチュの二項対立の構造を用いて評論していた。欧米と日本の歴史的/文化的背景、すなわち文脈の違いからくる両者のコントラストがとても興味深かった。
※ちゃんと理解できていないかもしれないので、気になる人は是非読んでみてください。私も2周目を読み始めました。

話は変わるが、私はCJSTという団体も運営している。その中で偶然にも、2023年のシンポジウムにご登壇いただいた樋田先生がアヴァンギャルドについて言及していたことを思い出した。一時期の挑戦的な時代が過ぎ去り、ジュエリー作品がつまらなくなっていることをとても嘆いていたことが印象的だった。私は同じ登壇者として、そしてジュエリーの作り手として、現代で活動する意義について意識するようになった。

これらのことから、《アヴァンギャルド》というキーワードとコンテンポラリージュエリー(以下CJ)の関係性について考え始めた。ここからはグリーンバーグの批評選集の内容をもとに、ジュエリーの世界とこれからのCJについて考察していきたいと思う。

批評選集は文化、美術、芸術家の3部で構成され、その中の第1部/文化の1項目に「アヴァンギャルドとキッチュ」という批評文が掲載されている。彼はその中でアヴァンギャルドを受け入れる人たちを支配階級(教養のある人、ラグジュアリー層)とし、キッチュを受け入れる人たちを一般大衆(教養のない人、貧困層)として分けていた。1970年代に書かれている批評なので無理はないだろう。その時代はまだ富裕層が教育や文化を独占していただろうし、貧困層は識字率も低く労働中心の生活だったに違いない。つまり、アヴァンギャルドのような文化や作品を理解できる/愉しめる人は富裕層しかいなかったのだ。そしてその対立構造としてキッチュ、つまり大衆に向けた安価でそしてわかりやすい商品が浸透したのである。

では現在ではどうだろうか。
教育や文化といった上流階級の嗜みは、50年前と比べて(ある意味で)ヒエラルキーの差は無いと言えるだろう。資金による多少の違いはあるかもしれないが、SNSが普及した現代において、以前のような関係性では説明できない。なので私は図のように、ヒエラルキーの軸に文化的な軸を追加してみた。そしてこの図を美術分野とジュエリー分野に当てはめてみる。

この図で考えると、
①美術に興味が無い層
②美術に興味があるが、購入困難な層
③美術に興味が無いが、購入可能な層
④美術に興味があり、購入可能な層
このように分割できる。
ここでいう「美術に興味がある」とは、定期的に作品鑑賞に訪れていたり、美術史について学んでいたりする人を指している。いわゆる純粋に美術が好きな人たちだ。

②の層は、著名な作家(もしくはそこまで有名でない作家でも)のオリジナル作品は買えないが、ポスターや関連商品やカタログなどを購入したり、美術館の入館料などで分野の活性化に一役買っている。カルチャーとしての美術分野を支え、鑑賞が好きな人たちと言える。
③の層は、昨今のアート市場を席巻しているビジネス目的の人たちに当てはまる。作品の好き嫌いや良し悪しよりもその作家が有名か否か、または価値が上がるかどうかの投機的な視点で美術作品と向き合っている。成功者のステータスとして、また転売での利益拡大のため、アートとビジネスを結びつけている印象が強い。
④の層は、純粋にそして実質的に美術を愉しむ余裕がある人たちだ。多くのギャラリーやアートフェアそして美術館を訪れ、自身の気に入った作品を収集し、時には作家をサポートして美術分野の礎を築いている。
昨今の美術市場では③が勢力を拡大し、インサイダーでの価格吊り上げやトレンド作品のコントロール、若手作家の買い漁りなど、多くの問題が取り沙汰されてるが、③が介入してきたことで市場が活性化されていることは否定できない。③と④が市場を支え、②と④が文化的価値を高めていると言えるだろう。

一方でジュエリー分野はどうだろうか。
⑤ジュエリーに興味が無い層
⑥ジュエリーに興味はあるが、限定的な購入額の層
⑦ジュエリーに興味は無いが、購入可能な層
⑧ジュエリーに興味があり、購入可能な層
ここでいう「ジュエリーに興味がある」とは主に《着用》に重きを置く人たちを指している。

⑥の層は、ファッションジュエリーやコスチュームジュエリー、プロダクトジュエリーのような(グリーンバーグの言葉を借りればキッチュな)ジュエリーを着用して愉しむ人たち。ジュエリーが主役というよりもアクセサリー(付属品)として、視覚的なファッションの一部や気持ちを盛り上げるアイテムとしての役割が強い。
⑧の層は、主にハイブランドやコマーシャルジュエリー、一点物のジュエリーなど、その人にしか買えない特別なジュエリーを好む。特に貴金属や貴石を選び、資産的価値としても購入したりする。
当たり前のことを言うが、ジュエリー分野とはこの⑥と⑧で成り立っている。

ここからさらにCJにフォーカスしてみよう。
CJ最盛期と言われていた80年代から90年代は《着用》という機能から解放されつつあった時代であるが、その時は⑧の層がこのムーブメントを支えていたと言っても過言ではない。既存のジュエリーのイメージを覆えすアヴァンギャルドなジュエリーに興味を持った人が出てきたのは容易に想像できるだろう。しかし時代は進み、⑧の層が入れ替わってきた結果、現在では再度《着用》に重点を置いたジュエリーが好まれ始めた。これは私自身の実体験からもそう感じている。
現在CJ作家として活躍している人たちはこの流れに対応し、⑧の層に向けた高価で作家性の強い作品(素材価値のあるモノを頻繁に用いて)と、⑥の層に向けた手の取りやすい価格帯のマルチプルな作品を制作している。⑧の人たちは自分にしか買えない(着けれない)作品を手に入れることで欲求が満たされ(そして素材価値によって損はしないという安心感も)、また⑥の人たちはメインの作品は購入できないけれども小ぶりの作品を手に入れることで、こちらも欲求が満たされる構造になっている。これが現代に生きるCJ作家の成功パターンの一つだと言えるだろう。

だけれども、私はこの《着用》に固執する商業ジュエリーへの回帰に危機感しか感じていない。そこで重要になるのが図の⑦の層である。これは美術同様のビジネスパーソンを指しているわけではない。声を高らかに言いたくはないが、CJにセカンダリーの市場は皆無だ。CJの中心地であるミュンヘンでのオークションを複数回リサーチに行ったが、結果は散々だった。価値が上がるどころか、貴金属や貴石を使用しない限り価値は落ちているし、落札者が見つからない。適切な言い方では無いかもしれないが、今現在の多くのCJ作家は“ゴミになるモノ”を日々生み出しているだけだと言わざるをえない。なぜなら、一般的なジュエリーとは、着用者が自身の趣味嗜好を基準に購入して着用(長くても数十年だろう)を楽しみ、また追加してジュエリーを手に入れることで箱の中で役割を終えるジュエリーが増えたり、手放すとしてもプライマリー価格よりも落ちることはほぼ確定している。つまり、その人のところでそのジュエリーは一生を終えるのだ。人類の長い歴史で考えてほしい。CJを作っている人、売っている人、買った人、貰った人に私は問いたい。今現在のCJは、ある個人の一瞬を満足させるために作られた消費されるだけのジュエリーになってしまっているのではないか、と。
勿論「良いものは譲渡されるし、残り続ける!財産としての価値以外にもそこには感情がある!」もしくは「ジュエリーをもらったら嬉しくないのか!」などと言う人もいるだろう。本当に申し訳ないが、その人たちは過剰にジュエリーが好きなだけか、残念ながらジュエリーを一つの方向からしか見ていないのかもしれない。
残っている多くのジュエリーはもれなくゴールドやシルバー、宝石を使ってはいないだろうか。それは素材価値の壁は越えられたのか。
本当にその人が身につけていたジュエリーを他の人も同じように欲しいと思うのか。それは譲渡する側の自己満足ではないのか。

現在のCJの大半は、国内外の美術館に収蔵される少数の作品を除けば、おそらく未来には残らないだろう。過剰にモノが作られ捨てられる現代において、CJの作り手は一体何のためにジュエリーを作っているのだろうか。そして私たちはいつまで素材価値の呪縛から逃れられないのか。私は消費されるために作品を生み出しているのではないし、未来の人にも作品を見てもらいたいと本気で思って活動している。そのためにCJSTとしてもいくつかのプロジェクトを進行しているが、このことはまた別の機会に紹介しよう。
ここまで文章を読んで苛立っている人もいるかもしれないが、私はCJに興味があるからこそ、この現状を打破するための提案をしたいのである。そのことを理解してほしい。

さて、最後に結論として言いたいことは、CJは⑦の層を絶対に獲得しなければならない、ということである。それは先程も説明したが、投資目的の人を振り向かせるのではなく、ジュエリーの《着用》に興味を持たない層として、例えば美術や工芸に興味のある人たちを指している。横のつながりを見てほしい。きっとその人ならではのジュエリー表現が見つかるはずだ。作家のペーター・スキュービックが60年代のウィーン・アクショニズムに影響され、自身の体に金属板を埋め込んでジュエリー作品を制作したように、ジュエリーの文脈だけでは説明できない作品と作家が持つ時代背景があるのではないか。ジュエリーには《着用》に固執しない魅力があると私は信じているし、それは伝わると思っている。

ジュエリーを身につけることで気分が上がる。コミュニケーションが生まれる。そんなことは(強弱はあるにせよ)ほぼ全てのジュエリーやアクセサリーが持ち合わせている普遍的で言い尽くされてきた長所だ。 なぜCJがあたかも他のジュエリーよりも凄いことをしていると言わんばかりにその点を強調しなくてはいけないのか。
コロナパンデミックを経てAI時代に突入した今、あえてCJを作る/紹介するのであれば、CJだからこそ可能な表現を模索し提示しなければならないだろう。ジュエリーの中だけで語るジュエリーの何が面白いのか。周りに何を言われようが、私は《着用》に縛られないアヴァンギャルドな作品作りを目指している。

次回は⑦の層を獲得するための具体例をあげてみたい。


参考図書
・美術のポリティクスー「工芸」の成り立ちを焦点として
北澤憲昭 著、ゆまに書房

・グリーンバーグ批評選集 Clement Greenberg : Selected Writings
藤枝晃雄 編訳、勁草書房


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寺嶋孝佳【装身具作家/CJST企画運営】
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