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『コンテンポラリージュエリー』誕生までの変遷を調べてみる ♯1(装身具の起源からメソポタミア文明と縄文時代まで)


今回からは『コンテンポラリージュエリー』を本当に理解する上で避けては通れない装身具史の変遷について、何回かに分けて投稿していこうと思います。海外と日本、そして美術史と照らし合わせながらの進行目指しますが、私も未だ勉強中なので曖昧な点や間違いもあるかもしれません。予めご了承下さい。


世界最古の装身具は紀元前何年?

 装身具史の舞台となるのは美術史と同じくやはり西洋です。それは“ヒト”の進化、新天地への移動と交流、生活様式の確立、文化の融合などが装身具の変化に多大な影響を与えました。美術史との異なる特徴としては、装身具になる材料の発見とそれを加工する技術の進歩制作者と着用者の関係性などがあります。装身具の誕生は“ヒト”の生活に一体どのような影響を与えていったのでしょうか。


【装身具の起源】 

 美術史の出発点とも言える世界最古の洞窟壁画は、スペインのラパシエガ洞窟、マルトラビエソ洞窟、アルタレス洞窟で発見された約6万5000年前のものとされています。他にも有名なフランスのラスコー洞窟壁画が描かれたのが紀元前2万年前ですが、装身具の歴史はさらに過去へと遡ることができます。現在最も古い装身具とされているのはスペイン南東部の洞窟クエバ・デ・ロス・アビオネスで見つかった約11万5000年前の貝殻ビーズです(2018年に発表)。驚くべきことは、最古の壁画と最古の装身具を制作したのはホモ・サピエンス(現生人類)ではなく、ネアンデルタール人なのだそうです(現生人類だとアルジェリアで見つかった約10万年前の貝殻の首飾り)。この発表が正しければ装飾欲求は私たち現生人類だけが持っている特異な感覚ではなく、“ヒト”として生活するための基盤が衣・食・住から装・食・住に置き換えれるのかもしれません。もちろんこれは現在までに発見された中での研究結果であり、もしかするともっと古い時代、現生人類とネアンデルタール人が分岐した50万年前以前にも装身具が制作されていた可能性も十分にあり得ます。装身具の起源を考える者の一人として「まだ見つかっていない装身具があるはず!」と、私はそんな気がしています。 


【古代/原始美術時代】 

 続いて原始美術の時代です。“ヒト”は直立歩行を始めてから手が自由に使えるようになると脳(前頭葉)が発達しました。そして道具を開発し発展させ使用し始めたのです。脳が発達することで動物的本能(個体の維持や種の保存)の他に知能を手に入れ、その結果死への恐怖と向き合うことになりました。これらが“ヒト”と“動物”との違いだと思いますが、“ヒト”は同時に動物の優れた能力への憧れが強くなります。肉体面では空を飛ぶ、速く走る、強い力、治癒能力など、精神面では自然現象の予知能力などです。このことがのちに呪術行動の起源へと繋がっていきました。また人数が増えることにより社会生活を営み始めます。言語の発達から文字の発明と、段々とコミュニケーション方法が変化していきました。その社会の中で「自己をどう認識するのか」という個性の概念が生まれ、本能と知能、他者と自己の間で揺れ動く自己矛盾が芸術表現活動の根源になっているのではないでしょうか。

 1万5000年前に農業革命が起こり、現生人類が定住生活を開始してから人口が爆発的に増加しました。この時代に制作された装身具は美術史に出てくる造形物と似通った部分が多く見られ、多産や収穫を祈祷するために女性や動物を象った像や模様を施した器などが制作されました。中でも装身具はサイズ感や着用機能により、護符としての役割が強かったと考えられています。またその他の用途もあり、1万年前の地層からはクロマニョン人の化石と共に首飾りなどの装身具が出土されました。これは“ヒト”が死者を埋葬し始めたことを証明しており、死者を慈しみ、死後の世界を想像し始めた宗教的意識が誕生したと考えられています。精神的な拠り所として死者の弔いや祈り呪術などに装身具が重宝された証拠です。また“ヒト”の美意識が強まるにつれ、装身具制作と着用が盛んになっていきました。性別関係なく多くの人たちが装身具の着用を純粋に愉しんでいた時代です。色彩や視覚形態から得られる心情の変化、つまり「美しいと感じること」が美的表現活動として日常生活をより豊かにしていったのだと思います。

 生活環境や居住場所によって調達できる材料は限られており、必然的にその土地特有の材料を使用した装身具や工芸品の特徴が現れてきました。これらは生活集団内における同族、仲間の証としても用いられ、さらに貴重な鉱物や貝殻類、動物のツノや毛皮などは他国間との貴重な外交手段にも使用されるようになりました。ある一定の土地でしか手に入らなかった物質がその他の場所で出土されるという発掘結果からは、人々の往来と多国間との交流関係があった物的証拠にもなっています。また、集落の規模が大きくなると今度は権力者の台頭や職業という仕組みが始まります。いわゆる装身具職人の誕生です。専門職ということで日々の創作活動から道具の扱いが上達し、造形への創意工夫が見られるようになったことで、次第により硬い素材や精密なデザインへとバリエーションが拡大していきました。そしてこの技術革新は自国をより豊かにする原動力となって人口増加へと繋がっていきます。コミュニティ内の人数が増えることで今度はヒエラルキーが構築され、権力者はその地位を可視化するために周囲とは異なった服装や装身具を身につけてアピールするようになりました。死後の権力の象徴が“墓”だったとすると、生前の権力の象徴は“装身具”だったのかもしれません。
 宗教的、象徴的な造形物として見たものを表現した原始美術の流れとは別に、この時代の装身具は“材料から想像するフィクションを具現化した時代”だったのではないでしょうか。


【メソポタミアと近東】

 ここからは貴金属宝石を使用した装身具の時代に突入します。メソポタミア文明以降、金属の発見とともに大きく生活様式が変化していきました。紀元前4000年頃には青銅器の加工から初めての金属製装身具が出現しました。進んだ冶金(やきん。鉱石などの原料から金属を採取・精製・加工して金属材料・合金を製造すること)は人類の科学文明の芽吹きと共に、貝や骨などのそれほど加工が難しくない材料の装身具から一転、金属の持つ強固かつ多様な加工方法が材料の意味する神秘性をより一層強くしました。しかし金属加工が確立し始めると、その用途は次第に武器を中心に用いられるように変化していきます。定住生活は良い面ばかりではなく、農作物の不作時や災害時にはコミュニティ全体への影響が甚大でした。そこでより良い居住環境を求め、または農作物などを奪うための“戦争”が始まり、装身具や生活工芸品以外の侵略を目的とした兵器として金属製品が研究、生産されていきました。安住の地の拡大による奪い奪われる時代の到来です。

 その後、装身具史で一番重要な材料の使用が始まりました。それは“ゴールド”です。現在では紀元前3500年にゴールドが使用され始めたと言われており、精錬技術はまだ無く質的にはムラがありましたが、いわゆるゴールドジュエリーが誕生しました。砂金や粒状のゴールドをそのまま使用していたので完成した装身具の色の濃さが価値の判断基準でした。そしてこれ以降、ゴールドの持つ魔性の力に人間が振り回されていく歴史が始まることになります。紀元前3000年からは金工技法が高度化し、青銅器時代が始まりました。鍛金技法(ハンマリングやピアッシング)や彫金技法(チェイシングやイングレイヴィング)がこの時代に開発されたと言われています。キャスト(溶かして型に流す)よりもシート状のゴールドを加工するのが主流で、ゴールドチェーンや繊細な装飾表現(クロワゾネやフィグリー)などもこの時代から登場しました。そして宝石(ラピスラズリやコーネリアン)の使用もこの頃から始まります。驚くことにこの時代には既に巨大なビーズ工場があり、バイコーンビーズ(シューメリアンビーズ)が大量生産されていました。装身具は自分で見つけた材料を自らの手で加工した単純な時代を経て、専門の職人制度、量産体制と流通といった現代に近いスタイルへと移行していきました。

 ゴールドジュエリーの制作、量産が始まると、今度は盛んに装身具の交易が始まりました。紀元前2300年から2100年頃、この時代の中心地はメソポタミアと古代エジプトでです。各文明および民族間の影響が相互的だった為、これ以降近東の装身具文化が均質化へと向かっていきます。近東ではリングが主流で実用性よりも装飾性や厄除けなどの目的でした。また一方ではシールリング(絵柄を石などの硬い素材に彫り込んだもの。粘土などに押しつけたりスタンプのような機能を持つ)が発明され、取引の証明幸運のお守りとしても使用されました。紀元前2000年頃には粒金技法(グラニュレーション)が流行し直径0.5mm以下のゴールドの粒を使用していたという超絶技巧を考えると、当時の文明の高さが想像できるのではないでしょうか。紀元前1400年頃には鉄器時代が始まったとされ、融点が1539℃を超える鉄の加工からは冶金技術の高度化が進みました。その後装身具は男性もしくは神々が着用するものとして考えられ、ブレスレットやイヤリング、ネックレスが制作されます。他にも遊牧民(スキタイ)との交流から動物モチーフのアニマルデザインが人気となりました。エジプトから小アジア内を職人たちが往来しデザイン性や素材感、技術力が徐々に洗練されていく過程で、今までには無かったモチーフや彩色が持つ意味合いが装身具に込められるようになりました。このような歴史を経てアレクサンダー大王の時代以降、近東のジュエリーはヘレニズム世界を通して均質化されたのです。


その頃の日本は?

 一方日本では欧州とは異なった装身具の歴史があります。大陸文化からの遅れは数千年あったものの、原始美術期から仏教伝来時期までの装身具の役割は西洋のそれと大きな違いはみられません。重要なのは大化の改新以降、工芸的な技術の伝承と服装の変化に合わせた機能美を軸に、国際的な装身具とは異なった日本独自の装身具文化を歩み始めていくことになります。


 【旧石器時代/縄文時代】

 旧石器時代、紀元前1700年のまだアジア大陸と日本列島が陸続きだった頃、装身具文化が大陸から日本へ移入されてきました。この頃は頭部飾りや首飾りを中心に石製の小玉類や原石に穴を開けただけの単純な造形で、自らを飾ろうとする本能的な動機(美意識)や死者への弔いのため(宗教的)に装身具が用いられていました。縄文時代(紀元前400年頃まで)に入ると、自然に対しての畏れや敬いといった感情から精神的な拠り所として、装身具の役割が重要視されていきます。髪飾りや耳飾り、腕輪などのアイテムの多様化が進み、粘土や骨角牙、漆の使用によってより自由な造形が始まりました。ファッションの一部としての愉しみ方意外にも、強さや権力の象徴、呪術や儀式の役割、同族の証など社会的な意味合いなどが求められていました。先の文を読んでもらった通り西洋文化との類似点が多いことから、原始美術時代の生活水準だと地域によっての装身具文化の差異はあまりないのかもしれません。やはり“ヒト”の根源には装飾欲求(装・食・住)が備わっているのではないでしょうか。

 また、日本ではこの時代でもまだ青銅器や鉄などの金属が使われておらず、世界とは約3500年もの文明の遅れがあったようです。ゴールドジュエリーが均質化、国際統一化していく最中、日本はまだまだ自然素材中心の原始的な装身具を制作し身につけていた民族でした。ではいつ頃から金属を使用した装身具が現れてくるのでしょうか。そしてどのような発展方法を見せていくのでしょうか。

次回に続く。

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