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根っこを持った人工知能。スマートシティの下半分を考えていく。連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:三宅陽一郎

未来のスマートシティが様々な人工知能に彩られているであろうことは想像に難くないが、その人工知能はどのようにあるべきか。そして、どのように人間と関係を結んでいくのか。今回は東洋的思想を人工知能研究に導入し、エージェントの実存に可能性を求める三宅陽一郎氏に日本人が考えるAI、日本発のスマートシティの可能性を訊く。
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三宅陽一郎(立教大学大学院人工知能科学研究科、日本デジタルゲーム学会理事)

中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院工学研究科 都市・建築学専攻)
石川初 (慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科)

人工知能研究に東洋哲学を

中西:ふた昔前くらいは哲学的な話と技術的な話をブリッジする研究をしている研究者が結構いましたが、そういう方も少なくなりました。三宅さんの研究はそうした研究だと思っていまして、ぜひお話ししたいと思いました。
 人工知能学会の学会誌に三宅さんが寄稿された『記号主義とコネクショニズムの統合,デカルトとベルクソン,スマートシティ』[1]という論文を始め、いくつかご著書を拝読しました。コネクショニズムを東洋思想と結びつけたのは珍しい研究なのではないでしょうか。

三宅:そうですね。元々、谷淳先生(沖縄科学技術大学院大学 教授)が現象学とニューラルネットを結びつける研究をされていて、ぼくの理解するところでは「自分自身の情報と環境の情報を混ぜて混沌とした状態を作り出すと、内部でいろいろな振動が生まれて、自律的な渦のようになる。それが意識の始まりではないか」といった解説を書かれていました[2]。ぼくはそれにとても感動して、ニューラルネットは数学的モデルだけれど、けっこう「東洋的な混沌」なのではないかと思ったのです。きわめて東洋的な部分にアクセスできるツールだな、と。

中西:ぼくはオブジェクト指向のプログラミングの授業でポリモーフィズムを教える時に薬師寺のサイトで紹介されている短歌を紹介しています。「手を打てば はいと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」という歌ですが、それは法相宗の「唯識」のもっとも簡単な説明で、それを初めて見た時にポリモーフィズムの説明にも使える!と思いました。ぼくの実家は奈良で薬師寺も近いので、オブジェクト指向プログラミングと唯識をつなげるのは違和感ないのですが、三宅さんがご著書でいきなり唯識からゴンと書かれていて驚きました。どういったところに興味があったのですか?

三宅:『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』[3]という本を出していまして、東洋思想と人工知能の話をしました。西洋哲学ってモデルをあまり提示しないのですね。しかし、東洋哲学は(特に仏教ですけど)モデルをちゃんと提示する。中でも唯識ははっきりしたモデルを提示している。井筒俊彦先生(故人:慶應義塾大学名誉教授)が唯識の話から導いた意識モデルを著作で書かれています[4]。仏教というのは「人間探究の科学」のような側面があるので、3000年にわたるそのような探究の成果が人工知能と結びつかないはずはないという気がして、唯識モデルと知能を結びつけて考えてみました。

中西:他者とのコミュニケーションを前提とした知能のモデルとして仏教的な縁起論や無意識も使おう、ということですか?

三宅:そうですね。他者と自己を最初から分けてしまうと、その時点で議論が終わってしまう。しかし、唯識で考えると……、一番下にある阿頼耶識(あらやしき)では自己も他者も溶け合った状態になっている。その上の末那識(まなしき)のところで「自分がこのへんかな」「相手はこのへんかな」という区分けの感じになってきて、その中から自と他のインタラクションが立ち上がっていく。唯識はそういう「認識の生成モデル」だと受け止めています。西洋では現象学がこの唯識と同じことを言っていて、仏教の影響も大きいのだと思います。ニューラルネットなどの人工知能で生成的に知能をつくっていくことは、このモデルととても合致している。デカルト的な「あなた」と「わたし」というシンボリックなところから始めると記号の応答みたいな話だけになってしまいますが、唯識のような「混ざった状態」から始めることによってジェネリックな議論ができるのではないかと考えています。元は一体であったものが、二つの自と他になるわけですので、その間の関係性が構築されるというより、元からのつながり、があるはずです。それはちょうど、キノコが地上では個々の存在であるかのように見えて、地中ではつながっているごとく、です。

キノコの知性をメタファに

中西:このプロジェクト『スマートシティとキノコとブッダ』では、三宅さんが提案されているAIのレイヤー:Spatial AI・キャラクターAI・メタAIで言うと、キノコの地中の菌糸のネットワークがSpatial AI、地表に顔を出したキノコがキャラクターAI、そしてそのずっーと上の階層にメタメタメタAIとしてブッダが居るというイメージを持っています。
 このプロジェクトでインタビューをした深澤遊さん(キノコの知性、森の知性。人間の想像を超えた知のネットワークが都市のビジョンを変革する)は「地下に広がるキノコの菌糸ネットワークは記憶力と判断力を備えている」という研究成果を出されています。それだけでも驚きなのですが、さらに、米国のオレゴンには10km四方くらいの菌糸を地下に張り巡らせたキノコがいて、しかもコロニーではなくひとつのDNAを持った「個体」で2000歳らしい。10km四方の生命体が知性を備えていて、そこからキノコがキャラクターAIみたいにぴょこぴょこと出てくる。人類はこの生命体を完全に理解できないと思いますが、知性のあり方としてキノコを考えることはとてもおもしろいと思っています。三宅さんがおっしゃっている「artificial living things」はこうした人間とは異なる知性という理解でよろしいのでしょうか。

三宅:そのキノコの例、とても示唆的ですね。部分的にはイエスです。人間も独立した「個」のように見えますが、自然界の一部ですね。我々の頭の中も環境に乗っ取られている部分がとても大きい。だから、我々の知性の半分は環境に依存した自然物で、残り半分くらいが固有物なのではないかと思います。知性という意味では、キノコのように半分は地下で自然につながっていて、残り半分が地表に顔を出している。今までの人工知能研究は地表から出ている上半分の研究ばかりをやっていましたが、これからは下の半分も視野に入れて研究しなければならないと思います。つまり「根を持った人工知能」の研究。キノコと同じ話で、根を持った人工知能は、いわば、もうひとつの自律的存在と言っても良いですね。人工知能というよりは「人工知性」あるいは「人工実存」という意味で実現していく。現在の人工知能の研究は、「賢さ」だけではいろいろな問題が解けないという状況にあります。アルゴリズムだけだと根がないので限界がある。AIと人間のコミュニケーションという問題もありますし、環境をうまく使う人工知能をどうつくるかという問題もあります。実存としての人工知能とは何か。知的機能って自然や世界の中における機能の実現という目標に導かれることが案外多いと思うのです。しかし、実存としての知能は、東洋的に言えば自然と自分が混ざり合っている場所から生まれる。

中西:そういう意味で言うと、記号論から入ってグラウンディングを目指すのではなく、最初からグラウンドに根ざしている状態と記号論を組み合わせるアプローチをしない限り、AIがグラウンディングしないのではないかということでしょうか。

三宅:そうですね。グラウンディングとしては、まず、記号がない状態で世界と結び合っている。そして力学的なダイナミクスがあって、そこから記号が創発してくる。最近はそういう研究もやっています。従来はグラウンディング問題というと1個の知性の記号グラウンディングの話だったのですが、複数の根を持つニューラルネットたち(キノコたちと言っても良い)が話し合うことで初めて記号が出てくるという研究。けっこうシンプルなシミュレーションをやってみても、そのように記号が創発されてくるのです。シンボルをいくつか与えておくのですが。

中西:記号そのものだけ与えて記号の意味は与えないということですね。

三宅:そうすると、驚くべきことに記号を使い始める。コミュニケーションのためにその記号を使う。Variational Autoencoder(バリアブル・オートエンコーダ)という方法を使うと、そういうことができます。

中西:ぼくは遺伝的プログラミングを使った研究で博士号をもらったのですが、ちょうどその頃、カール・シムズさんの人工生命のシミュレーションが多くの研究者を驚かせました[5]。シンプルだけど多様な身体を持った人工生命が環境や他者とインタラクションする過程が複雑な動きと形状と知性を獲得させる様子はとても衝撃でした。三宅さんも、そういう「混沌から何かがシェイプされていく過程」と記号が合体する時期が近いという感覚をお持ちなのでしょうか。

三宅:以前からシンボルグラウンディング問題とフレーム問題という2つの基本的な問題が提起されていました。シンボルグラウンディングのほうは「ニューラルネット的なシステム」の話と「シンボリズム」の話がずっと並行で進んできたのですが、現在は、言語を扱う際に一旦、言語を多次元ベクトルにしてニューラルネットに放り込みます。これが機械学習を使った自然言語処理の原理ですね。もうシンボリズムなのか自然言語処理なのかわからないようになった。それから、さきほどの「記号の創発」という話もある。それから、さきほどの「記号の創発」という話もある。だから、ニューラルネットは「自然で言うならキノコの菌糸だ」と考えて、キノコのメタファで見ていくのが良いのだろうと思います。そう考えると、シンボルグラウンディング問題はある程度の目処がついてくるんじゃないかなと思うのです。
 一方、フレーム問題のほうは、全然、解ける気がしないですね(笑)。「汎用的なフレーム」や「問題を捉える問題層」をつくることは、また、ちょっと話が全然違ってくるので。

中西:そこが人間の役割なんでしょうか。AIと共存していく時の「人間の仕事」はフレームをつくってAIに与えてあげることなのかなと。

三宅:そうなんでしょうね。自律性が高いということはフレームが広いということでもあると思うので。人間からAIにフレームを渡して、そのフレームを分解して別のAIに渡すといった「フレームのエコシステム」みたいなことによって人工知能社会ができるんじゃないかなと思います。

人間はインターネットに向いていない? 

中西:三宅さんの『人工知能が「生命」になるとき』の234ページに「人工知能が用意した立場に人がエントリーして、かつ人工知能が用意した立場にエージェントがエントリーする」という記述がありますが[6]、その世界観はWEBの世界にも近いのではないかと思っています。サーバー同士とか、ブラウザとサーバーとか、そういう「マシンとマシンがコミュニケーションするところ」は人間が書かないほうが良い。コンピュータに書かせてコンピュータに読ませたほうが良い。マシンリーダブルな世界にしたことによってWEBの世界が広がった。
 次のデジタルの世界では、「マシン同士がコミュニケーションするレイヤー」「マシンと人間がコミュニケーションするレイヤー」「人間と人間がコミュニケーションするレイヤー」が分かれていて、さらにここにもう一つ『エージェント』が入ってくるのが大きな変革でしょう。「デジタルな他者」が重要になってくる。だとすると良い意味で、人間中心主義ではなくなっていくのではないかという気がしていますが、三宅さんは次のデジタルの世界をどのようにイメージされていますか。

三宅:インターネットの効果は、地球の裏側の人ともリアルタイムで口論ができるシステムだってことですよね。マクルーハンじゃないですけど、要するに「人類社会をうまく圧縮した」ということだと思います。だけど、至るところで諍いが起こってしまって、TwitterなどのSNSはさまざまな軋轢を生み出している。人類全体がお互いに対する自家中毒に陥っている。元々、人間はもっとゆったりした関係性で暮らしていたわけで、現在は明らかに加熱状態になっています。それをクールダウンしたいなと思っています。つまり、情報社会ってまだ完成されていないし、たぶん「人間はインターネットに向いていない」と思うのです。

中西:なるほど。マシンには向いているが人間には向いていないと(笑)。

三宅:人間こそがインターネットの主役だと思っていたけれど、今の惨状を見ると、人間はインターネットに向いていないので、まず、インターネットから人間を引き剥がすべきだなと思っています。それで、インターネットと人間の間に(AIの)エージェントを置く。議論はAI同士がツイッターでやれば良いのです。「人間―AI―AI―人間」という感じの関係性にして、交渉や議論はAI同士がやる。その結果を人間に報告する。将来的には、人間はたくさんのエージェントを使い魔(*1)のように持てば良い。
 文章を書くAI、接客業をするAI、SNSをやるAI。仕事のエージェント、趣味のエージェント。学会や討論会もAI同士で議論してあたためておいて、後から人間が入れば良い。たとえば「地域貨幣をどうするか」というテーマの討論会だったら、AIはいろいろな知識を持っているので、まずAIで議論させておいて、人間はそれを見ている。その後、人間も参加して「AIがあんなこと言っていたね」などと話し合う。
 エージェントの良いところは人間関係を変えられることだと思います。今まではどんなテクノロジーでも人間同士の関係や環境を変えることはできなかった。でも「人間―AI―AI―人間」という関係性をつくればそれができる。たとえば、「あの人に絶対謝りたくないんだけど、代わりに謝ってきてよ」とエージェントに頼むと、先方のエージェントに会いにいく。先方は「もし、謝ってきたら許しておいてよ」ってエージェントに頼んでいるので、エージェント同士で謝って許して、関係が変わる。営業でも、売る人のエージェントと買う人のエージェントが交渉していろいろ決めて行って、人間は最後にハンコを押せば良い。
 インターネットは人間社会を圧縮してきたけれど、それをエージェントによって、人間と人間の距離を多様化して間接化する。人間と人間の間に距離を作る。空間を作る。そんなふうにインターネットはエージェントに明け渡しちゃって、人間はどっしり構えて使い魔のエージェントに囲まれて優雅に暮らせば良いんじゃないかな、と。SNSのアカウントの半数をAIにするだけで、だいぶ違ってくると思いますよ。

中西:インターネットによってグローバルビレッジができたけれど、そのビレッジが狭くなりすぎて喧嘩しているってことですよね。

三宅:そうですね。人間同士が争いそうになったらAIが止めにくるとかね。

石川:犬を連れているほうがみんな挨拶するようになるというのに似ていますね。

三宅:そうですね。別のチャンネルが開くわけですね。「人間―ペットーペットー人間」。それを汎用化すると「人間―AI―AI―人間」になる。

本江:イヌの名前は知っているけど、ご主人の名前はわからないって、よくあります。

三宅:人間同士はそのくらいの関係で良いんでしょうね。ペットと同様、クルマもエージェントになるので、駐車しているクルマ同士で話したりすれば良いですね。もう人間は世界の中心にいる必要がない。むしろ、それがテクノロジーの恩恵なのではないかと思います。

石川:今のクルマのたとえ話はよく分かりますね。現在は人間が交通システムを引き受けなければならない状態なので、交通ルールを勉強しなきゃならないし、ひどい事故も引き起こす。クルマ同士が話し合ってどんどん賢くなっていけば人は苦労しなくて済みますね。

(*1)使い魔:使い魔(つかいま、英: familiar spirits)とは、伝承やファンタジー(幻想文学)において、もっぱら魔法使いや魔女が使役する絶対的な主従関係で成り立つ魔物、精霊、動物などのことである。(wikipediaより)

人間から仕事を引き剥がすために

三宅:AIでは、昔、Agent Communication Language(ACL)という分野が盛り上がっていた頃はマルチエージェントの分野でオークション言語とかACMLとかいろいろありましたけど、今は下火になっていてちょっと残念です。今、あらためてエージェント間の言語をつくっていく必要がある。人間が解読できない言語でソリッドに会話できるので、それでAI同士はやりとりする。人間に伝えるときだけ自然言語に翻訳すれば良い。

中西:そういうコミュニケーションの枠組みを作るのが人間の役割ですかね。その枠組みの中でAIにどんどん学習してもらっていって、人間は傍に置いてもらう、と(笑)。人間のこれからの「仕事」ってどうなるのでしょうか。

三宅:現在、我々がやっている「仕事」って属人性が強すぎると思います。人ありきで仕事を集中させている。だから、40度の熱が出ても「おれが行かないと仕事が回らん」みたいにがんばって出勤してしまう。だから、人間から仕事を引き剥がすべきだと思うのです。たとえば、学校の先生は現在、過重労働が問題となっていますが、テストの採点とか生徒指導とか、たくさんの仕事を分解していって、エージェントに可能な仕事を、それぞれエージェントに任せれば良いかと思います。そうなっていない現状ですが、それはAIベンチャーにとってはビジネスチャンスだと思います。先生がインフルエンザにかかったらAIが授業を進めればいいし。何でもかんでも人間がやるという状況から抜け出す。それをやっていると、AIもどんどん賢くなっていくので、そのうち、人間の労働力があまり要らない社会になる。日本のような少子化社会には向いていると思います。

中西:たしかに。人が減っていく国ではエージェントで仕事が回って、かつ、喧嘩が減るほうがハッピーですね(笑)。

三宅:ゲーム産業もそうなのです。日本の場合、50人くらいのチームがちょうど良いのですが、その人数で大規模ゲームを作るには、やっぱりAIが必要です。AIがひとりひとりの力をエンハンスしてくれる。プレイヤーが進む地形をつくるときは、まずAIが作ってくれてパラメータ調整もある程度やってくれる。それを人間がブラッシュアップする。デバッグもAIにやってもらう。ゲーム開発のデバッグは、大型ゲームでは標準的に100人を超える規模でとなっています。海外にもアウトソーシングしているので、費用がかかるだけでなく管理が必要です。そこで現在はデバッグをAIにやらせるようになってきています。朝、出勤すると、一晩中ゲームをやり込んでいたAIによるバグレポートが出来上がっているという。

中西:ひたすらボタンを連打するのは人間よりも機械のほうが向いていますしね。

三宅:セガさんはすでにそれをされていますね。パソコン200台くらいでそれをやって、億単位のコストダウンができるはずなので。でも、ゲーム産業で起こっていることは他の産業や業種でも起こりうる。さきほどの教師もそうですし、弁護士でも小売業でも。ただ、AIを導入する際に、人間を AIに置き換えようとすると、たぶん失敗すると思います。置き換えてしまうのではなく、「人間の仕事の一部をAIがやって、AIによって人間をエンハンスする」という形にするべき。現在のAIの議論って「この仕事はAIがやるようになりますか」みたいな置き換えの話ばかりですが、それは無理。人間が中心になって、その周りにAIがいて部分的な仕事をする。AIは人間をパワフルにするためにいる。それが現実的な未来じゃないかなと思います。

石川:人間をAIに置き換えようとすると失敗するというお話、すごく示唆的ですね。スタッフがいろいろな細かい仕事をやって、決裁だけボスが下すみたいな。いわゆるブラックなデザイン事務所などの事例は、エージェントがやれる仕事を人間がやらされている不幸ですね。

本江:そこにどのくらいAIが介入するかという問題がありますね。

三宅:今は端境期だと思うのですね。建築家をAIに置き換えるのではなく、建築家の作業を分解して、AIができるところはAIで埋めて、最終的には人間がミックスする。だから、これから重要になってくるのは「AIと人間のインターフェース」。AIと人が協調する部分。現在はなぜそこが進んでいないかというと、AIの世界にエンジニアしかいないからです。つまり、インターフェース・デザイナーが必要なのですね。たとえば、コンピュータを便利にGUI化したのはデザイナーであってエンジニアではないわけです。デザイナーなしでiPhoneを開発していたら、エンジニアはコマンドを打ち込むiPhoneにしていたでしょう。エンジニア、コマンドが大好きだから(笑)。iPhoneはデザイナーがいたからアイコンが並ぶ画面になった。AIも同じ道を辿るべきで、デザイナーが優れたユーザーインターフェースにするべきなのですね。学校の先生用のUIとか、もっと汎用的なUIとか。

石川:現在のAIは、パソコンにたとえれば98(PC-9800)くらいの時代ってことでしょうかね。

三宅:そんなかんじですよね(笑)。今はAIを語るのはエンジニアだけですから。

本江:『ロボット刑事(*2)』などの時代はまだコンピュータをよく理解できないので、AIやロボットは「ものすごい能力を持った人間」というイメージでしたよね。現実として、ある時期に「コンピュータは人じゃないじゃん」と誰かが言ったときからユーザーインタフェースの可能性がいろいろ開けてきたという気がします。

石川:エージェントが人ではないとすれば、どんな形をしているのでしょう。

三宅:ぼくのイメージでは、小型生物のような、使い魔的なかんじですね。空間把握が得意なエージェント、自分の仕事のスケジュール管理と記録をしてくれるエージェント、研究のサポートをしてくれるエージェントとか。株式売買のAIとかね。エージェントがいればインターネットを使わなくても良いわけです。

中西:100%自分の能力を持ってくれるのではなく、10分の1くらいの能力のエージェントをたくさん持つ。それらが自律性を備えた「生」として表象されるかんじですかね。

石川:星新一の小説に、肩の上にオウムが乗っていて、一言言うと、全部、それをていねいで社会的な言葉に直してくれるというのがありましたね[7]。

本江:ありましたね。「これ買え」というとていねいに相手に説明して、「要らない」というとていねいに断るという。

三宅:そんなイメージ。ある程度の意思がある。AIリッチな人は12体持っているし、あまり使えない人は3体だけ持っていますというかんじですね。

(*2)ロボット刑事:『ロボット刑事』(ロボットけいじ)とは1973年4月5日から同年9月27日までフジテレビ系で毎週木曜日19:00 - 19:30に全26話が放送された、東映製作の特撮テレビ番組、およびこれと同時期に『週刊少年マガジン』で連載されていた石森章太郎作の漫画。(wikipediaより)

人工知能と人工知性(人工実存)

中西:その使い魔のイメージが機能をもった「人工知能」だとすると、さきほど三宅さんがおっしゃった「人工知性」あるいは「人工実存」はインタラクション不能で映画「惑星ソラリス」(*3)の海に近いイメージでしょうか。「知性を持っていることはわかるが、我々はどうすれば良いかわからない」。つまり、人工知能と人工知性はある意味、両極なんでしょうね。
 三宅さんの著書『人工知能が「生命」になるとき』[4]の中で、「都市機能を強化するために人工知能を実装するのか、もしかすると自然の延長として人工知性を迎え入れるのか、この両極の中のどこに人工知能を続けるかが今後の都市計画で問われていくことになるでしょう」というようなことを語られていて、すごく僕らのイメージにぴったりでした。
 このプロジェクトでインタビューをした石倉敏明さん(秋田公立美術大学 准教授)が「ワイズフォレスト」というキーワードを語られていたのですが(宗教と神話がつくり出してきた「ヒトと異なる知性」。 ヒューマンセンタードを超えたワイズフォレストを求めて(前編))、無理やり人工知能を実装するのがスマートシティだとすると、それとは違う軸として、ワイズフォレスト、すなわち人工知性的な「森」があるのと思います。我々が理解できない「超越している知性」と対話する環境としての森。
 便利な都市と人類を超越している森をバランスしていくことは、おそらく人類が取り組んできたことなのだと思います。ご著書で書かれたことは(上述の内容)、今お話したような「(デジタルそして物理的な)都市と森の間で人類はどう進んでいくのか」という問いに近いのでしょうか?

三宅:そうですね……。「人工知能」はあまりにも情報空間に依存した存在です。リアルな空間を情報空間に置き換えた上で活動できる。Googleがやっているのはまさにそういうことですね。リアル世界を情報空間に移すので、情報空間を介してリアル世界に影響を与えてください、と。その情報空間を拡張することで人工知能たちを拡張するというのが、現在の人工知能の方向性です。
 一方、「人工知性」は「森」的な存在の根源を人間と共有するという方向性。いわば東洋的な形です。東洋の人々は無意識にそれを求めているのではないかなと思いますね。我々と根を同じくする「人工知性」を作れるはずだという期待があるから、AIBOとか初音ミクみたいなキャラクターがリアリティを帯びてくるのだと思います。それらにつながるにはどうしたら良いかという問題は「森」的な議論であり、キノコ的な議論なのでしょう。
 そのような「人工知性」たちがもたらす効果は、おそらく役に立つ知的なサービスではない。「AIがそこに存在する」ということ自体がすでに重要なことなのだろうと思います。大して役に立たなくても。

本江:でも、深く役に立ちますね。

三宅:ええ、そこにいるだけで。森もそうですけど、「人工知性」を知能と言ってしまうとabilityの話になるので、そうではなくexistence = 実存の話ですね。存在していることを探求していくことが、もうひとつの人工知能(人工知性)の役割だと思います。使い魔が100体いても200体いても満たされない部分を満たしてくれるものだと思うのです。
 そういう人工知性はおそらく必ず「身体」を持っていますね。身体には情報だけでなく、いろいろな刺激や感触があります。それで初めて「他者」になれる。人間がそうですよね。人間の存在は、もちろん言語という情報レイヤーもあるけれど、やはりボディもあるし声もあるし、いろいろなチャンネルが総合して、他者として存在している。人工知能が他者になれないのは情報チャンネルしかないからだと思います。身体もなく、深い根をもっていない。
 たとえば……目の前の一本の木は世界のどこかで自分とつながっている感覚がある。人間同士も、個体としては違いますが、やっぱりどこかでつながっている。それが人類という概念の誕生かもしれないし、宇宙の誕生かもしれない。同じ大気を共有している。我々は個としてあるけれど、どこかでつながっている。グランドチャレンジとして、そういう中に人工知能を入れられないかという挑戦があるわけですね。ぼくの場合は、ゲームという仮想空間の中だけでも良いからそういうものをつくりたいと思っています。
 森というのはすごく良い比喩だと思うのですね。ぼくにとって「エージェント」という概念は「都市の妖精」でもあります。妖精は森とつながっている。森の中の妖精。森の代弁者としての妖精。スマートシティでは人工知能がその役割を担う。エージェントたちはスマートシティとつながって、スマートシティの代弁者として人間のところに来る。
 彼らが「人工知能」としてやって来るのか、「人工知性」としてやって来るのかで、だいぶ話は違ってきます。人類の長い歴史の中で、人は、まず、便利な人工知能を求めますが、やがて人工知性(あるいは人工存在、人工実存)を求めるのではないでしょうか。日本人はそういうものをつくることがうまいですね。AIBOしかり、たまごっちしかり。我々には「生命ではないものを生命と見なす」という文化的土壌があるので、人工知性(人工存在、人工実存)の研究は日本で研究するのに向いている。西洋的な発想の製品って「サーバント」なのだけれど、それでも日本人は名前をつけて可愛がったりしますね。ルンバに名前をつけたり。我々の世界と深く絡み合っている、根を同じくする人工知能(人工知性)をつくりたいとぼくは思っているのです。

石川:なんとなくドミニク・チェンさんの『ぬかボット』の話(「発酵」という世界の窓から覗く、人間と生物とロボットのいる生活風景)とつながるかんじですね。

三宅:ドミニクさんの作品もそうですよね。世界につながる根を「ぬか」で象徴していますね。根が可視化されている。菌のネットワーク。

本江:さきほど「人―エージェントーエージェントー人」という形でコミュニケーションするというお話がありましたが、それにはとても共感できました。その状態が進んでほとんどのことをエージェントがやってくれる時代になったら、人と人、つまり人同士は何をするんでしょうね。互いの存在を認め合うくらいしかやることはないのかな。愛し合うとか。そこに第三の系として人工知性(人工存在、人工実存)が出てくる。実存者としての人工知性と人間との関係性はどうなるのでしょうね。

三宅:実におもしろい議論です。しかし人と人との関係は続いていくでしょう。車があっても歩くことがなくならないように。しかし、人工知性は、人と人の関係のチャンネルのバリエーションを増やしてくれるのです。サーバントとしての人工知能は重宝するけれど、「存在としての人工知能(人工知性)」なんて要らないという人もいるだろうと思います。しかし、人工知性の存在感が必要な場所はある。たとえば、医療の現場で認知症の人のそばに存在として寄り添うとか。限界集落にAIをどんどん送り込んで、いつか再び人間が帰ってくるのを待つとか。あるいは治安の悪い場所にAIを住まわせて治安を良くするということも考えられますね。知能を持って世界と深くつながっている存在者(人工知性)がいるおかげで、いろいろと選択肢が増えていく。情報サービスがいくらよくなっても、たぶん、ボロボロになった都市を救えない。そこにちゃんとした実存的な存在がいることで、我々はフィロソフィカルなアクションをとれる。

石川:人工知性、人工存在、人工実存……。この「人工実存」という言葉は小松左京の『虚無回廊』[8]に出てきた言葉ですね。

三宅:そうですね。小松左京は人工実存という言葉を使っている。日本人は昔からそういうものが好きなのではないかなと思いますね。

(*3)惑星ソラリス:『惑星ソラリス』(わくせいソラリス、原題ロシア語:Солярис、サリャーリス、英語:Solaris)は、アンドレイ・タルコフスキーの監督による、1972年の旧ソ連の映画である。ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』(早川書房版での邦題は、『ソラリスの陽のもとに』)を原作としているが、映画自体はレムの原作にはない概念が持ち込まれており、また構成も大きく異なっている。(wikipediaより)


身体があることによって、魂が宿る

本江:いや、でもよくわかります。人間にそういうものへの希求、求めがあることはわかる。昔から大きな木はそういう実存の力を持っていたし、建築、クルマ、工芸品、刀など、人工物であっても圧倒的な実存がある。

中西:この『スマートシティとキノコとブッダ』というプロジェクトは、JST CRESTに採択された研究プロジェクト『限定合理性を超越する共生インタラクション基盤』のサブプロジェクトなのですが、そのメインプロジェクトのほうでは、非人間型ロボットの研究をやっていまして、具体的には家具型・遊具型のロボットを作っています。
 ぼくはこれが「お地蔵さん」みたいになってくれたらいいなと思っているんです。そこに居て見守ってくれるだけの存在。ぼくの奥さんのおばあちゃんは東京の下町の人なのですが、お地蔵さんの帽子や服を毛糸で手編みして冬場に着せる人だったそうです。昔、そういう人、いましたよね。お地蔵さんを「存在」として見ている。昔からそこにあるものを存在として見る。

本江:昔からコンタクトを繰り返して、お祈りしたり、お水をやったり、花をやったりしながら「存在」にしていったのでしょうね。

石川:「魂が宿る」みたいなね。ある種の木にしめ縄が巻かれるようになるとか、刀も「魂が宿る」と言われますね。モノがexistenceになる瞬間がある。モードが変わったというか……。駐車場のステンレスの車止めの上にスズメがついているのってあるじゃないですか。あれ、商品名を『ピコリーノ』と言うのですが、地元の人が手編みのセーターを着せたりしている。江ノ島の駅前にあるのが有名です(*4)。この間、授業の課題で学生が「ピコリーノの分布」を調べてきた発表があってとてもおもしろかった。ステンレスのスズメに服を着せた途端に、ある種のキャラクターに見える。

中西:人工物なんだけど生命を帯びた存在として認知され始めた証ですね。服を着せる行為は。

三宅:まさにそれが東洋的感覚ですよね。ゲーム産業でもそれと似たことがあって、ゲームキャラクターに手紙やチョコレートをファンの方が送られることがあります。アニメキャラクターもそうですね。

中西:そういうこと、米国人はあんまりしなさそう(笑)。

三宅:しないですよね(笑)。でも、日本人だって頭のどこかでわかっているんですよ。キャプテン翼は本当はいないんだ。でも翼くんの誕生日にはチョコレートを贈りたいわけですね。逆に、ゲームの中の美形のキャラクターが使っている香水が販売されていたりします。そういう、擬人化と言っちゃうと元も子もないけれど、いわゆる「見立て」とか「みなし」というのは東洋の人の感覚ですね。海外から入ってくる人工知能ってどうも違和感があるんですよ。サーバントで、機能なので。だから、世界的には「存在としての人工知能」ってなかなか研究しづらいところがあるのですが、それはアジアから発信すべき軸ですよね。欧米では文化的にもNGだと思うけど、我々は八百万(やおよろず)的に考えてそういう研究ができると思うので、存在系AIは日本人がどんどん生み出していけばいい。世界が混乱するくらいに(笑)。使い魔とは違う人工知能研究の軸があることを世界に知らせたい。森の人工知能、世界に根を張る人工知能、すなわち人工知性(人工存在、人工実存)ですね。アカデミアの研究者は、人から白い目で見られるようなことはあまりやりたくないと思っているので(笑)、かっこいいアルゴリズムの話しかしない。でもやっぱり、やってみるべきだと思うんですよね、もうひとつの軸。

中西:ゲームとAIと都市を結びつけると、ただのエンターテインメントにとどまらず、存在と機能主義をリンクさせるメリットがあると思いました。

三宅:ゲームって、「機能」と「実存(存在)」の両方が必要なのです。ゲームをつくっていくときはユーザー心理を推定しながら進めていきます。ちゃんとサイエンスとしてやっているわけではないけれど、パラメータでなんとなく人間心理が推定できる。もしくは、推定できる状況に追い込んでいく。やっぱり、4体に囲まれた状態と8体に囲まれた状態ではプレイヤーの心理って違いますよね。あくまでゲームのシミュレーション空間での出来事なのですが、「身体」を持っているので、プレイヤーをかばったり、ポジショニングを決めたりと、行動でユーザーに訴えかけることができます。デジタル空間では、人間が物理的な身体を捨てて入ってきてくれているので、デジタル存在としてはプレイヤーもキャラクターも平等な立場ですね。スマートシティだと、これが逆になって、AIも物理的な身体を持って生身の人間に接していく。フレームとしては一緒で、人間が置かれた状況があって、そこにキャラクターが駆けつけるという構図は変わらないだろうと思いますね。

本江:人間をかばうとか、そういう「人とエージェントの関係性」はあらかじめデザインされたものではないのですね。人とエージェント、何を通じて分かり合うのだろうか。

三宅:ひとつは物理的な接触による共感かな。以前に伊藤亜紗先生からお聞かせ頂いた話なのですが、マラソンをしている選手同士は当然、ほとんど会話も交わさないので、あまり分かり合えないらしいんですね。ところが、二人の間をロープ1本で繋ぐと、ほとんど分かり合えるらしいのです。相手の意思が分かるし、自分の意思を伝えられる。だから、肉体ってすごく優れたコミュニケーションツールで、肉体の接触がコミュニケーションを生むのだろうと思います。林要さん(ロボットテクノロジー企業『GROOVE X』創業者)のロボットに対する意識の原点は、最初にロボットに抱きしめられたときに「すごく温かいかんじがした」という経験にあるということを読みました。人間とロボットとの間でも肉体によるコミュニケーションの影響が大きいということですね。肉体によるコミュニケーションはロボットと人間だけでなく、ロボット同士でも有効なのではないかと思います。たとえば、ロボットがお皿を割っちゃったときに他のロボットがポンと背中を叩いて、皿を割ったロボットは「あ、分かってくれた」っていうこともあって良いのではないか、と(笑)。ロボットでも声色が変わるとか、体がしょぼんとするとか、手をつなぐとか、そういう身体のコミュニケーションチャンネルがあっても良い。使い魔ではできないことですよね。

本江:犬や猫は膝に乗ってくるから。

三宅:その感覚に近いですね。スマートシティの一番上は情報層かもしれないけど、一番下は物理層。物理層におけるサービスを考えないと、結局、情報サービスの延長で終わっちゃうみたいなところがあると思うのです。人間とロボットを接触させると、もしものときの補償問題などもあるので、敬遠する方もおられますが、でもそこにはたくさんの研究テーマがある。それによって、「世界とつながっている」感が出てくる。

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スマートシティの「下半分」を考える

中西:ぼくが家具型ロボットをつくろうとしているのも人間が触れられるからかもしれない。

三宅:なるほど。やっぱり家具も「同じ空間を共有している」という感覚ですよね。

中西:現在、スマートシティと都市OSみたいなことを研究する研究者がアカデミアからも企業からもたくさん出てきているのですが、どうしても技術的な議論が多いのです。キャラクターをどうデザインするかとか、触られたら嬉しいかとか、どういうスマートシティだったら行きたいか、といったことまでなかなか議論されていない。だから、スマートシティをつくる議論にゲームをつくってきた方々にも加わってもらえば、いろいろなテーマが出てくるだろうと思います。日本初のスマートシティの作り方を考えていくうえでも大事なことなんじゃないかと。だから、また、いろいろなところで三宅さんにお話をうかがっていきたいと思います。

本江:今までぼくらがこのプロジェクト『スマートシティとキノコとブッダ』で考えてきた基本的な文脈は「スマートシティなんてチャラチャラしたこと言いやがって」という批判だったわけですが(笑)、三宅さんと話して、「それは上っ面のデザインのことだけを見て言っていた」ということに気づきました。つまり、今まではスマートシティのうち、地面よりも上の半分しか語っていなかった。地面の辺りの下半分の物理層、つまり「スマートシティの根っこ」はどうあるべきかという問題はまだ設定されていませんね。下半分にはどんなデザインとインターフェースがあるのかを考えて、初めて十全たる都市ができる。今はまだ「スマートシティの下半分」を語る言葉もない。どんな論を立てるのか。

三宅:ぼくも今日、お話しして、「日本におけるスマートシティは、社会で語られている現状のスマートシティとは違う」と気づきました。都市って環境ごとつくれるものなので、下の菌糸をちゃんと張り巡らす必要がある。スマートシティの中の人工知能は、菌糸から顔を出したキノコだと思う。都市で人工知能と出会うのは、森の中で妖精と出会うのと同じ体験ですよね。そうやって都市に「全体」と「個」の人工知能を整備していく。
 その後はリアルな「自然」と人工知能がどのような関係が作れるかという問題に進んでいくと思います。スマートシティはゲーム世界に似ていて全体をコントロールしやすいと思いますが、リアルな自然、つまり本当の森はそんなにコントロールはできない。そういう環境での人工知能を考えることのほうが難しいですね。

中西:スマートシティの実現よりもワイズフォレストの実現のほうが難しいということなのでしょう。日本発のスマートシティ論が最終的に行き着く先は、ワイズフォレストとスマートシティの際にあるのかもしれませんね。

【2021年11月15日 Zoomによるインタビューにて】
(テキスト・編集=清水修 Academic Groove


[1]三宅陽一郎, 記号主義とコネクショニズムの統合,デカルトとベルクソン,スマートシティ, 人工知能(36巻3号), 318-319(2021/5).
[2] Jun Tani, Exploring Robotic Minds: Actions, Symbols, and Consciousness As Self-Organizing Dynamic Phenomena, Oxford Series on Cognitive Models and Architectures (2016).
[3]三宅陽一郎, 人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇, ビー・エヌ・エヌ新社(2018).
[4] 井筒俊彦、意識と本質―精神的東洋を索めて, 岩波書店 (1991).
[5] Karl Sims, Evolved Virtual Creatures, https://www.karlsims.com/evolved-virtual-creatures.html (1994).
[6]三宅陽一郎, 人工知能が「生命」になるとき, PLANETS/第二次惑星開発委員会(2020)
[7] 星新一, 肩の上の秘書, ボッコちゃん, 新潮社 (1971).
[8] 小松左京, 虚無回廊, 徳間書店 (2011).



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