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「発酵」という世界の窓から覗く、人間と生物とロボットのいる生活風景:連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:ドミニク・チェン

スマートシティでは、人間、生物、ロボット、AIはどのようにコミュニケーションをし、どのように共存していくのか。今回は、ぬか床ロボット・NukaBotの開発者であり、「発酵」、人間とテクノロジーの関係性、ウェルビーイングについての研究を続けているドミニク・チェン氏を迎え、「マッチョな機能拡張」というスマートシティの既存イメージを乗り越える新たな「ビーイング」の形を模索していく。

Photo by Nishiki-ichiba, Kyoto

ドミニク・チェン(早稲田大学文学学術院・表象メディア論系・准教授)
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)
石川初 (慶應義塾大学 環境情報学部)

「発酵」との出会い

ドミニク:僕がアーティストの遠藤巧己さんと一緒に会社(株式会社ディヴィデュアル)を創業した日に、遠藤さんが、「ドミニク、君に渡したいものがある」と言って、彼の家に伝わる30年物のぬか床をおすそ分けしてくださったんです。

中西:おばあちゃんみたいな人ですね(笑)。

ドミニク:そうそう。ぬか漬けはやったこともなかったし、デジタル一辺倒の人間だったので、これは一体どうすればいいんだ?と(笑)。
 急いでスーパーに行ってぬかを買い足して、一生懸命こねて、いただいた30年物のぬか床を入れました。入れた瞬間は新しいぬかの匂いがするんですが、天地返しをして世話していくと、2日目か3日目くらいに、――なんと言えばいいんですかね、僕は「オーバーライド」(上書き)って言っていますけど――全体が30年物のぬか床に変化したんです。
 そのぬか床は、遠藤さんのお母さんが漬けてきて、息子の遠藤さんが引き継ぎ、僕がおすそわけしてもらい…と、コンテキストが連なり、時間のレイヤーが価値を帯びている。そういう、メタ思考で萌える部分はあったんですが、何よりも初めて漬けたキュウリとニンジンが……おいしい!!こんなことってあるんだ!と、知的好奇心以前に体が反応して、「発酵」の魅力にとりつかれたんです。それをきっかけに、遠藤さんや、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんなどの「発酵」の師に導かれて発酵食にのめりこんでいきました。
 ところがある夏の日、腐らせてしまったんです、すごく大事にしていた自慢の「ぬか床」を。オフィスのベランダに放置してしまい、翌朝、駆けつけたときにはもう腐ってしまっていて。まるで、ペットを亡くしたような喪失感を感じて3カ月間くらい落ち込みました。

石川:3カ月間、落ち込んでいたんですか。

本江・石川:ぬかロス?

ドミニク:ぬかロスですね。この喪失感は一体何なんだろうと。いろいろな人と話をしたりしているうちに、東京大学の池上高志先生のお誘いで、フランス・リヨンの人工生命会議「European Conference on Artificial Life 2017」に参加することになりました。興味のあるセッションを一緒に回って、子ども用ロボットにニューラルネットワークを搭載して生命的な挙動を学習させるというワークショップに参加しているとき、自律ロボットの形がちっちゃい「ぬか床」に見えてきたんです(笑)。これが、NukaBotの着想を得た瞬間でした。

中西:Artificial Lifeの会議で「ぬか床」をロボットにしようと思った。

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Nukabot(画像提供:ドミニク・チェン)

ドミニク:もし、あの「ぬか床」が自律的に涼しい場所に移動できていたら、腐らせずに済んだかもしれない。そんな思いから、「ぬか床ロボット」のプロトタイプをつくり始めました。最初は「移動」させようと試みたんですが、技術的に難しかったので、別のデザインを考えることにしました。そのとき、岡田美智男先生の「弱いロボット(自身の弱さを適度に開示することで、周りにいる人の強みや優しさを引き出すロボット)」[1]や、川上浩司先生の「不便益(不便だからこそ得られる良いこと)」[2]という概念にインスパイアされて、「ぬか床ロボット」は、一種の「弱いロボット」なのだということに気がついたんです。
 「ぬか床」は、乳酸菌、酵母、グラム陰性菌などと呼ばれるさまざまな雑菌が仲良く共生している状態なんですが、人間が手を加えないと特定の雑菌が大量繁殖して、多様な菌の共存する場所ではなくなります。この微生物たちの弱さ、生命的な気配に気づけるように、テクノロジーを使って「しゃべらせて」みたのが2019年バージョンのNukaBotです(https://www.youtube.com/watch?v=s5x9YJawcQY *註1)。
 「発酵」については別の方向の関心もあって、松岡正剛さんとの対話記録『謎床:思考が発酵する編集術』[3](*註2)では「発酵」をメタファーとして使っています。物理的な発酵現象をモデルにしながら、人間の社会、人間の意識、人間と人間の関係性が、「発酵」するとは一体どういうことか、といったことを語り合っています。テクノロジーとは必ずしも直結しない議論が開かれていると思います。

【* 註1:NukaBot(ぬかボット):菌の活動や発酵具合を測定するセンサーを内蔵した、コミュニケーションできるぬか床ロボット。音声認識スピーカーが搭載されており、「そろそろかき混ぜたら?」といった会話によって、ぬか床の状態を教えてくれる。】
【*註2:『謎床:思考が発酵する編集術』:ドミニク・チェン氏が抱き続けてきた「日本とは何か」という問いを、編集工学研究所所長・松岡正剛氏に投げかけ、その謎を対話によって解き明かそうとした試みの全記録。「謎床」とは、野菜を入れると微生物たちが発酵を通して滋味溢れる漬物を返してくれる「ぬか床」のように、知識を投入すると思考を進めるための素材としての問いを返してくれる器のこと。対談の最後に出てきた二人の造語。】

弱いからこそ結べる共存関係

中西:さっき、本江さんと石川さんが「リグレト」(*註3)を使っていたという話をしていたんです。

石川:メチャクチャ使ってましたよ。

ドミニク:ありがとうございます!

中西:NukaBotが「弱いロボット」だというお話にすごく納得するとともに、昔からドミニクの関心は人間の非常に繊細な「弱さ」のようなものをピックアップすることにあったんだなと思いました。

ドミニク:「リグレト」は匿名掲示板で、「弱い自分をさらけだす」コミュニティなんですが、荒れないし、「2ちゃんねる」にも「Yahoo!知恵袋」にもならなかった。資金調達をしたり、事業の主軸として何年もやるということを一切考えずに即興的につくったサービスで、自分たちにとってもすごく希有で不思議なプロダクトでありプロジェクトだったと思います。
 確かに、「弱さ」というのは僕の中のテーマなのかもしれない。昨年、「わかりあえなさ」というキーワードを21_21DESIGN SIGHTの企画展「トランスレーションズ展」の副題にしたんです。コミュニケーションというのは「わかりあえる」ことを前提にするのではなく、「わかりあえない」というところから出発したほうが、争いや衝突に対してwiseに向き合える。同様に、人間の根本的な「弱さ」を受け入れて、そこを出発点に社会のあり方であったり、テクノロジーのあり方であったりというのを考えたほうがいい。
 テクノロジーで人間の能力を増強させる拡張系の思想というのは、「マッチョ」だと思うんです。映画「マトリックス」的に脳にプログラムを埋め込むだとか、パワードスーツをつけて100キロのものを持ち上げられるといった、能力の無限な増大を目指す「マッチョ」な思想は、今、全世界的に危機を迎えている。僕はこの問題意識に向き合わずに、最先端のテクノロジーの追求だけをしていても仕方ないんじゃないかという思いが強くなっています。

中西:これだけ地球が温暖化しようが、新型コロナウィルスが拡大しようが、スーパーマンもアイアンマンも来てくれないですからね。。だからこそ、マッチョではないドラえもんやダメ人間が主人公となり得る(笑)。

本江:まったく成長しない主人公(笑)。

石川:かつ、本質的に問題解決してくれないですしね。
 私が「リグレト」を好きだったのは、「図面終わらない~」みたいなことを書くと、「いや、俺も」「私も終わりませーん」みたいなコメントがつくところ。みんなお互いがダメだということを披露し合う。

ドミニク:確かに、何も建設的なアドバイスはない場所でしたね。成長するという目的が埋め込まれてない。

石川:そうですね。ただ慰めているだけ。

ドミニク:道具を使ってものび太の問題は解決しないわけですからね。なるほど、その観点はなかったので勉強になります。

中西:弱いロボットも、ぬか床も、NukaBotやリグレトも「弱いからこそ関係が結べる」んだと思うんです。日本での人間と庭や里山との関係も、それに近い。一方的に管理するのではなく、ある程度は自然にまかせて放っておくが、繁茂した緑に人が手を入れるからこそ関係が保たれる。

石川:ただ「ままならなさ」を認めつつ、お互いが楽な折り合いのつき方みたいなものを探りながらやっていくみたいなところが、すごく庭づくりに通じると思います。

【*註3(株)ディヴィデュアルが開発した「ヘコむを楽しむWebコミュニティ」。だれかがつらい体験やへこんだ話を書きこむと、それを見ただれかが励ましのメッセージを送る。「リグレト」は英語の「リグレット」から派生した名前。2008年頃に立ち上げられ、2017年まで運営された。】

世話しつつ、世話されている。「相互ケア」

中西:NukaBotと接しているドミニクの話を聞いていると、「ぬか」を愛しはじめているなと思いました(笑)。

ドミニク:そうですね、思い入れ、愛着。毎日、キュウリとかニンジンとかを入れる瞬間は「ぬか床喜ぶかな」って思う(笑)。自分よがりの意識が後退しているときって、なにか気分がいい。

中西:その気持ちよさって、「世話をしている」んだけど、実は「世話をされている」という、「共存」関係なんだと思うんです。
 本江さんもちょっと前から犬を飼われていて、犬の世話をしているんだけど、逆に本江さんが犬に散歩させてもらっているんですよね。

本江:そのとおりですよ。世話をすることで世話をされています。

ドミニク:今、「お世話をする」という言い方をされていましたが、今年のACM CHIという国際会議で採択されたショートペーパー(Nukabot: Design of Care for Human-Microbe Relationships[4])では、「Care(ケア)」という概念を使って論じました。人間が自然存在(微生物)をケアするときに、工学主義的な発想だといかに効率的にするかという話になりがちですが、今、中西さんがおっしゃったように、ケアしつつ、ケアされているという「相互ケア」の観点を捉えないと、従来の工学の観点に収まってしまうよということを書いています。

中西:ドミニクは本で「功利主義的な考え方を取り払うにはどうしたらいいのか」というようなことを書いていましたが、菌たちのオーダーに応えようと一生懸命やっているうちに、気がつくとおいしいものが出来上がっていて、しかも近所におすそ分けもして、別のだれかも喜ばすことまでできたりする、というのはおもしろい。
 昔は、地元のお地蔵さんに編み物の洋服を作っちゃうようなおばあちゃんって普通にいたと思うんです。利他的な行為をしているんだけれども、やっている本人はどこまで自分のためなのか。最終的に自分の利益になるかどうかわからないけど、世話をしてしまうという瞬間、自我の境界が揺らいでいるんだと思うんですね。
 かつて、共存する相手といえば、人間同士や哺乳類同士だったと思いますがが、テクノロジーを使うことで微生物やもっと違う非人間的存在とも共存ができるということなのではないか。ドミニクが微生物を愛し始めているのと同じように、ロボットとかAIを愛し始める誰かがいてもまったくおかしくないと思う。
 パーソナルコンピュータとかインターネットが出てきたころには、「道具」や「環境」によって人間の知能をどのように拡張するかというようなことが論議されました。ロボットやAIなどの「他者」がそういう新しい人間の行動を引き出す可能性があるのであれば、それはもはや「生命」もしくは「人工生命」だと言っていいのではないか。
 相手が人間以外の「他者」、情報じゃなくて「生命」であるということは、これまでの情報技術で考えられてきた切り口とだいぶ違うんじゃないかと思っています。

「妖怪」は人智を超えた世界とのインターフェース

中西:僕の実家は奈良で、石川さんは宇治なんですが、周りにあるランドマークって寺しかないんです(笑)。実家と学校の最寄りのお寺が国宝だったりと、人智を超えたものが周りにあるというのがデフォルトなので、東京の大学に来たとき、そういものに囲まれなくなってしまったという喪失感を強く感じました。
 東北の人たちの、神話や、ナマハゲといった妖怪的なものが日常の生活の中にまだ残っているという感覚は、東京に住んでいると欠落してしまいがちなんだろうなという気がするんです。

ドミニク:実は、さきほどのCHIのショートペーパーの中で、レビュアーにすごくおもしろがられたのが、「妖怪」について書いたセクション(「3.1 Yokai as an HCI Design Concept」)だったんです。民俗学者のMichael Dylan Fosterさんが「妖怪」について書かれた本の内容を引きながら、人工物が「付喪(つくも)神」になるという発想が日本文化においては非常に受け入れられていること、NukaBotのデザインに「妖怪」の表象を使っている意義を書いています。
 「NukaBot」は一つ目お化けのような姿をしていますが、目玉をつけたのはかわいいからじゃなく、「生命性」を喚起させるプロダクトデザインにしたかったからです。メディア・アーティストのクワクボリョウタさんたちの「ニコダマ」(目玉の形を模したデバイスアート作品)を許可をいただいて使わせていただいています。妖怪を象ったNukaBotを見せると、日本人以外の人も、すごく僕たちのコンセプトを理解してくださるし、共感してくれます。
 ただし、「微生物という人間の言葉を理解しない生命体に人間の言葉をしゃべらせるというのは、人間中心主義的デザインではないか」という突っ込みをよくいただきます。それは至極真っ当だなと思いつつも、「妖怪」ってはたして人間中心主義的なのか?と言われると、人間の理解可能な世界と理解不能な世界を橋渡しする存在なのだ書いたところ、レビュアーも「なるほどね」と反応してくれてうれしかったです。
 つまり、「妖怪表象」というのは「人間が感知できない自然世界と人間の社会とのインターフェース」であり、境界線上の問題なんです。NukaBotは人間の言葉をかわいくしゃべるんですけど、だれからも頼まれていないのに、いきなり自分のpH(水素イオン指数)やORP(酸化還元電位)がいくつでとしゃべり始めるといった予測不可能な挙動も入れている。NukaBotとは、「人間には意図がはかりかねる存在」としてつき合いたいんですね。

中西:神話というのも、人智を超えた現象とインターフェースするための人間の創作物とも考えられますものね。

ドミニク 仏像も、人間の形はしているんだけれども、あり得るかもしれない人間、いるかもしれない人間の「象り(かたどり)」というふうに考えることができます。

本江:インタフェースを作るためには何かしらモデル化しないといけない……

中西:そう、人間側に多少はたぐりよせないとコミュニケーションができない。アバターやAIは、人智を超えていたり、理解しがたいものを人間にたぐり寄せてくるテクノロジーとして、これからいろいろな形で活用されていくんじゃないかと。先端技術と付き合う場合でも、ポスト人間中心主義的なデザインのあり方で、都市や暮らしインタラクションを考えていくことが求められているんじゃないかと思います。

「卒業」まで伴走してくれるテクノロジー

ドミニク:NukaBotを作っていて自分でも矛盾しているなと思うんですが、僕がNukaBotを必要としなくなる瞬間がいつか来るだろうと。

本江:なるほど。

ドミニク:そもそも、従来のぬか床そのものが微生物たちの匂いを嗅いだり、手触りで乾湿を感じることのできるコミュニケーション・チャンネルなんです。その上に副次的にのっかっているのが、「弱いロボット」NukaBot。つまり、身体知を高めていければ、第六感で「あ、そろそろ菌が呼んでいる」というのがわかるようになる(笑)。もしスマホとかIoTを必要とせずに、このぬか床とつきあっていけるようになったら、NukaBotを「卒業」する時が自分にもやってくるだろうと。

石川:なるほど。「卒業するテクノロジー」ですよね。ものすごくいいコンセプトですね。

本江:なくてもよくなるというか。

ドミニク:「リグレト」には、時々卒業式のスレッドが立ったんです。「数年ここでお世話になりましたけど、そろそろ私はここを卒業したいと思います」みたいなコメントに、「ご卒業、おめでとうございます!」というコメントが100も200もワーッとつく。
 人間が卒業するものをわざわざ頑張ってつくっている自分は一体何をしているんだろうという思いもあるんですけど、徒労感ではなくて……「あ、こういうテクノロジーっていいな」と思った(笑)。なくてもよくなるまでのプロセスで「伴走してくれるテクノロジー」というのは、「弱いテクノロジー」のあり方として志向できるんじゃないでしょうか。

石川:「卒業」とは、「妖怪」の実装を達成したということだ思うんです。NukaBotのスイッチを切って周りを見渡すと、ヨーグルトも納豆も醤油もパンも全部、妖怪に見え始める。

ドミニク:そうですね(笑)。

石川:半妖怪世界へ踏み込める、みたいなことかもしれない。

ドミニク:あ、いいですね。

本江:「マスター」になって征服するんじゃなくて、他者のまま置いておくために、妖怪の「見立て」(*註4)を使って、共生する状態になる。

石川:そのざわめきが聞こえ始めるみたいなことなのかな。

本江:うんうん。

ドミニク:いいですね。

本江:テクノロジーを使って、道具や環境で人間の能力を「拡張」する……のではなく、また別の関係として、距離を保ちながら「他者のままにしておく」があるということですね。

【*註4 見立て:能や和歌、俳諧などで、物を別の物になぞらえて表現することを指す。ドミニク・チェン氏によると「観るものが自律的に意味を生成するためのプロセスを喚び起こす境界(インターフェース)」。】

ウェルビーイングと経済コスト主義

中西:そうした距離感というか日本的な物や事との関係性としての「日本的な幸せ(ウェルビーイング(*註5))論」はどのくらい特殊で、世界にも理解され得るんですかね?

石川:日本的な幸せってどれぐらい普遍的なのかということですかね?

ドミニク:ウェルビーイング研究においては、国や地域にはそれぞれのウェルビーイングがあり、今まで研究の主流ではなかったアジア、アフリカ、中東世界……における文化的価値観やウェルビーイング因子は西洋諸国と異なっているという研究が進み、ウェルビーイングが世界で普遍的に共通であるという考え方は暴力的だという反省が今起こっています。
 僕が執筆・監修した本『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために ―その思想、実践、技術』[5](*註6)は、ウェルビーイング研究が、個人主義を前提にアメリカ中心に行われてきたことに対してのカウンターとして、あえて「日本の中」というところにフレーミングし、日本語でつくった本です。
 日本では「ウェルビーイング」とか「マインドフルネス」があたかも舶来物をありがたるようにしてもてはやされていますが、「マインドフルネス」はそもそも、中国からやってきた禅の思想が日本で別の進化を遂げて、それが日本からアメリカに渡り、日本にまた逆輸入されたものです。この逆輸入モデルをもうやめないかという(笑)個人的なフラストレーションがあるんです。下手をすると今、ブームになっている「ウェルビーイング」「マインドフルネス」は、教条的な「幸せになるための法則」といったマニュアル本にすがる御利益主義につながりかねない。

本江:最も遠いものだよね。

ドミニク:「こうすれば人間は幸せになる」というような単一的な構造ができてしまうというところが、テクノロジーによる人間拡張思想の単純さともつながっている。危険なのは、最終的な達成を効率的に追い求めるための方法論だと思われてしまうこと。幸福の工学、ハピネス・エンジニアリングみたいなことになっちゃうんですね、

中西:最適な方法で最大な幸福を実現します、というような。

ドミニク:そうそう。NTTコミュニケーション科学基礎研究所の渡邊淳司さん(『ウェルビーイングの設計論~人がよりよく生きるための情報技術』の翻訳を共同監修)と最近よく話すんですが、「ウェルビーイング」は副詞にしたほうがいい、「ウェルビーイングリー」はどうかと。「ウェルビーイングリー」というのは、よく生きるの「よく」の部分。自分が幸せになるのが目的ではなくて、プロセスとしてどうやったらよく生きられるか。この発想を持てば、自己中心的な経済コスト主義から自由でいられる。

石川:それ、急務ですね。今、うちの学生なんて、めっちゃ「コスパ」って言いますからね。

ドミニク:社会人もよく使いますね。

石川:社会人がそういう価値観だということを若者が感じるから言うんでしょうけどね。

ドミニク:うん、難しいですね。効率性自体は悪いことじゃないと思いますが、バランス論的に、社会全体であまりにも効率性に偏向してしまうと、人間の存在自体をコスパで語る輩(やから)が跋扈(ばっこ)したりするような状態になってしまうんですね。

【*註5 ウェルビーイング:Well-being。身体的、心理的に良好な状態(幸福感)が個人の努力によるものではなく、社会との関わりから醸成されていくべきだという、社会的な意志を含んだ概念。】
【*註6 『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために ―その思想、実践、技術』:「わたし(個)」としてだけではなく「わたしたち(共)」のウェルビーイングを考え、共創をしていくための、思想、実践、技術の参考となる一冊。身体に働きかけるテクノロジーやワークショップに着目している。】

科学主義以前の「知恵」というコモンズ

ドミニク:今日のデジタル技術の大問題というのは、例えばスマホやスマホアプリなどのプロダクツが、利用者を中毒状態にするべく設計されていることだと思います。人間の知覚や認知をハックして、「卒業」することなく永遠に使い続けてもらうためにはどういうUX(user experience)を提供するのがいいのかといった非常に愚かしい目的のために、世界中のPhD持ちのエンジニアや心理学者などの才能を集中させている。「弱いテクノロジー」とは逆の思想ですね。
 テクノロジーによって最適化されて最強になっていく思想の行き着く先の地獄の様子は、もう僕たちの生きる風景の地平性にもう見え始めている。そうじゃない生き方、未来を考えようというとき、科学技術主義/Technoscientismに覆われる以前の「知恵」は僕たちにヒントを与えてくれます。そういった「知恵」は、日本、そして世界各地に存在していると思うんです。
 実は今日、この本、『コモンズとしての日本近代文学』[6]を刊行したばかりなんです。大体今から130年から70年ほど前の日本の作家たちの作品を21編を選び、各に僕が応答的に書き下ろした短文をつけています。この本は全部パブリックドメインで、著作権が切れている作品を「青空文庫」から選び、かつ、僕の文章もクリエイティブ・コモンズ・ライセンスを使用してウェブで公開しているという、ちょっと不思議な本なんです。 
 日本近代文学を読んでいると、いろいろな発見があります。1900年から1930年代あたりに、岡倉天心や九鬼周造、柳宗悦、柳田國男、折口信夫などの先人がいろいろなものを書いていますけれども、異口同音に明治の西洋化の波に対する違和感、それに対する抗いみたいなことを書いています。
 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、主語をテクノロジー用語に置き換えていけば、今でも通用する文章だと思います。明治時代というのは過渡期だったわけですね。今はもしかしたらポイント・オブ・ノーリターンに我々は来てしまっているかもしれないのですが、まだ違う方向に舵を切ることはぎりぎり可能なのかもしれません。

本江:先ほど言われた言い方で言えば、「オーバーライド」をする可能性はいつも残っている。マッチョが来るわけですけど。

ドミニク:マッチョを「オーバーライド」する思想があれば…。

石川:「妖怪」化が可能なメンタリティがある限り。

ドミニク:そうなんです。「妖怪」というのは日本の中ではすごく特殊な発展の歴史がある。民族学者の畑中章宏さんは、柳田國男の文章(*註7)を引きながら、河童は水害で亡くなった人たちに対する、生き残った人たちの後ろめたさの表象であり、妖怪表象を通して時間を超えた死者たちとのコミュニケーションの次元が開かれていると説いています。死者たちと関係性を維持するようなテクノロジーって存在しないじゃないですか。「妖怪」表象や、「妖怪」の文化の認識論というものは、今のテクノロジーが太刀打ちできない、世界とのより良い関係の結び方だと思うんですね。 

【*註7 柳田國男の文章:柳田國男『遠野物語』。岩手県遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で明治43年に出版された。】

「インドラの網」の夢

ドミニク:ラーニング、エデュケーションはテクノロジーと絡めてよく議論されますが、「マスター」(master。熟練する)に関連する言葉としては「マスタリー」(mastery。習熟)という言葉があります。でも、日本語の「習熟」という言葉のほうが、マッチョじゃない気がしていて……。

石川:なるほど。「習熟」って習って熟すだから、何となく「発酵み」があります。

ドミニク:「発酵み」がありますね。人間がなにかを学ぶことも「発酵」とか「醸成」とか「醸造」と言い表すこともできる。
 僕は、大学や教育のシステムにずっと違和感を抱きながら教員生活をしていて、教授が一方的に教えて、学生はそれに圧倒されるというステレオタイプを維持することには興味が持てない。学生と教員をヒエラルキーで捉えたときに、学生は「発酵」しづらいんですね。「発酵」をヒントに、何か別のアーキタイプ(動作類型)で学生と教員をフラットな構造でつながっているひとつのシステムとして捉えて、実際にそれを回す方法というのを考えるといいのではないか。「発酵」をヒントに、だれが酵母でだれが乳酸菌なのかとか(笑)。

中西:それは、華厳経や宮沢賢治の『インドラの網』[7]の中で描かれているような、いろいろなものが光り輝いて、共鳴し合っているというイメージに近いのでしょうか?宮沢賢治の『インドラの網』は「コモンズとしての日本近代文学」でも取り上げられていますね[8]。

ドミニク:そうですね。『インドラの網』は、インターネットの黎明期の理想的なインターネットのイメージとしても読めると思ってるんですけど、ハルシネーション(幻覚)のようでもあり、「縁起」の思想のイメージとも思えます。「縁起」の思想というのは密教の中で空海が描いたような即身成仏的な、ある種のユートピアだと思うんですね。ただ、それをどう具体的方法論に落とすか、僕自身、まだまだちょっと考えが足りていない。。

中西:いろいろな宮沢賢治論の本を読んでみて、僕が一番わかりやすかったのは社会学者・見田宗介さんの『宮沢賢治』という本です[9]。『自我の起源』(真木悠介名義の著作)とセットで読むと宮沢賢治の『インドラの網』をよく理解できた感がありました[10]。宮沢賢治は、デクノボーになって近代的な自我を超越したいと思っていたんじゃないか。見田宗介が、宮沢賢治は『インドラの網』に似たユートピア思想を描いていた、個人を超越して―「分人」になったと言っていいのかわからないですけど―自分を散り散りにしたいという欲望があったんじゃないかという言い方をしています。
 ドミニクがもし新たなサービスを考えるとしたら、自分をいろいろなところに分人化して、さらにそれをネットワークして、「インドラの網」的なものに近づける、というようなことを考えたりするのでしょうか?

ドミニク:そうですね。「インドラの網」に一番近いインターネット上のイノベーションって、パブリック・ブロックチェーン(*註8)だと思うんです。理論的にブロックチェーンが、ありとあらゆる現象のタイムスタンプのデータベースとして記録できるようになり、散り散りになっていく。フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、「dividual」(分人)という言葉を使って、人間がデータに分断化されていくということを危惧しながら『管理社会について』[11]という論考を書いたわけですけど、その危惧を通り越して、顕示的な「インドラの網」の像にまで連なっていく。
 自分の自我が、自己中心的な重力から解放されるために、ブロックチェーンと常時接続して生きていくという可能性は、すごくあり得ると思っています。プログラムの可能なブロックチェーンにおいて、「イーサリアム(*註9)」のスマートコントラクトを発展させ、決済に人間の生理的な感情とか情動のデータというものを連動させるんです。例えば、僕がすごく美しい苔寺を訪ねて、その静謐さに時間を忘れて立ちすくんだとすると、その関係性が自動的にブロックチェーンによって感知されて、僕の口座から庭の管理団体にお金が自動的に振り込まれる、みたいな。
 文化人類学者・松村圭一郎が、『うしろめたさの人類学』[12]で興味深いエピソードを書いています。物乞いの人がいると、日本人は自分の視界に入っていないかのようにスルーする。交換の対価は得られるのか、コスパはよいか、といった経済的・合理的な判断が介在してしまい、感情や情動が封じこめられているのではないかと。「後ろめたさ」を感じた時、もし自分の財産の決められた割合を自動的にあげるというような設定を自分ですることができたら、自己中心的な経済コスト主義から自由になれるんじゃないか。
 このほか、テクノロジーで実現してみたいなと思っているのは、自動化の機能を主体的に取り込むことによって、人間が自分自身に植えつけてしまう偏見や認知バイアスを矯正していく、いわば「人間リハビリ技術」。「卒業」までのプロセスを伴走してくれるテクノロジーですね。
 AIを使ったおもしろい研究があるんです。ここ約100年間に書かれたインターネット上の英語のテキストを機械に学習させて、固有名詞と共起する言葉をクラスター分析したところ、例えば、男性はパワフルでポジティブで肯定的、女性はより弱くて否定的な言葉と紐づけられていた[13]。一個一個のテキストを読んでもわからないような微かなバイアスをAIが読みとり、自分の歪みに気づける。そういう骨盤矯正のようなもののためにテクノロジーを使うということはすごくいいんじゃないかと思うんです。

本江:それは、言葉の「ぬか床」の中にあるフローラを見えるようにして、こういうことになっていますよ、と教えてくれるセンサと表象のシステムと同じですね、可視化されるということは助けになるでしょうね。

ドミニク:そうですね、より良く他者と関係するためのヒントが得られるということですね。

中西:なるほど。「タイプトレース」という作品で(*註10)で書き手の感情を可視化するというようなこともされていましたね。今日、NukaBotや松岡正剛さんとの『謎床』の本、そして「リグレト」などのお話を伺って、ドミニクがずっと同じ思いで、ずっと一貫してやってきているんだな、と改めて思いました。
 スマートシティという概念自体が近代都市のマッチョ版なので、近代合理主義の行き着く先がスマートシティだとすると、そんなに豊かな環境じゃないんじゃないかもしれないという考えがこのプロジェクトのベースにあるんです。しかし、人間が生物と関係したり、自分の弱さ、他人の弱さと関係していくというようにテクノロジーを使っていくことで、新しいビーイングを形づくることができるんじゃないかなという気がします。

本江:やさしいね。

中西:ドミニクはやさしいなと思います、ほんとに。今日は遅い時間まで本当にどうもありがとうございました。

ドミニク:こちらこそ、ありがとうございました。

【*註8 ブロックチェーン:取引履歴を暗号技術によって1本の鎖のようにつなげ、取引履歴を記録する分散型台帳。】
【*註9 イーサリアム:Ethereum。Dapp(自律分散型アプリケーション)およびスマート・コントラクトを実現するためのプラットフォーム。イーサリアムでは、イーサリアム・ネットワークと呼ばれるP2Pのネットワーク上でスマートコントラクトの履行履歴をブロックチェーンに記録していく。】
【*註10 タイプトレース:ドミニク・チェン氏が去年あいちトリエンナーレ2019に出展した「Last Words/TypeTrace」というタイトルのインスタレーション作品。執筆のプロセスがそのまま再生される仕組みであるType Traceを使って、10分以内に大切な誰かに宛てた遺言を匿名で書いてもらうもの。会期中2000人以上から遺言が送られてきた。「もちろん私も当時6歳の娘に宛てて書いたのですが、途中から涙がポロポロこぼれてしまって。遺言というのは、読むほうも感情を揺さぶられますが、実は書く行為のなかに本質があるのだとわかりました」】

(2021年8月20日 Zoomによるインタビューにて)
(テキスト・編集=清水修 Academic Groove

[1] 岡田美智男, 〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション, 講談社 (2017)
[2] 川上浩司(編著), 不便益: 手間をかけるシステムのデザイン, 近代科学社 (2017)
[3] 松岡 正剛, ドミニク チェン, 謎床:思考が発酵する編集術, 晶文社 (2017)
[4] Dominique Chen et.al., Nukabot: Design of Care for Human-Microbe Relationships, Extended Abstracts of the 2021 CHI Conference on Human Factors in Computing Systems, May 2021, Article No.: 291, Pages 1–7, https://doi.org/10.1145/3411763.3451605
[5] 渡邊淳司 (著, 監修), ドミニク・チェン (著, 監修) 他, わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術, ビー・エヌ・エヌ新社 (2020)
[6] ドミニク・チェン, コモンズとしての日本近代文学, イースト・プレス (2021)
[7] 宮沢賢治, インドラの網, 青空文庫
[8] ドミニク・チェン, 宮沢賢治『インドラの網』:縁起を生きるための文学, コモンズとしての日本近代文学
[9] 見田宗介, 宮沢賢治: 存在の祭りの中へ, 岩波書店 (2001)
[10] 真木悠介, 自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学, 岩波書店 (2008)
[11] ジル・ドゥルーズ, 追伸−管理社会について, 記号と事件―1972‐1990年の対話, 河出書房新社 (2007)
[12] 松村圭一郎, うしろめたさの人類学, ミシマ社 (2017)
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